2008年5月30日

イタリア放浪時代 5<モスクワ>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 5:05 PM

 大平原をゆったりと蛇行して北極海に注ぐ大河を眼下に、西に向かった飛行機はもう何時間も乗っているはずなのに陽がいっこうに傾かない。これが時差と言うものか、ちょっと4次元の世界を垣間見た気分で嬉しくなった。空港に降り、時差を調節するともう5時だと言う。緯度のせいか太陽はまだ高い。それに5月の終わりと言うのに30度近い、この熱さはなんなのだ。今年は特別で、内陸で起きるフェーン現象の一種らしい、バスの車窓から、川で水遊びに興じる子供や若者を見た。

 モスクワの第一印象がその熱さだったことは驚きだが、街並はさすがにヨーロッパに来た感じがする。そして、壮大なあの赤の広場に来た。クレムリンや、正面の教会は写真で見るよりずーと童話的でケーキのようである。今の政治情勢を考えると、そのロマンチックさが逆に不気味でもある。バスを降り広場を散策して正面の巨大なモスクワホテルに入った。2~3千室ぐらいありそうなホテルだ。宿泊するホテルはこちらでは選べないらしい、すべてインツーリスト指示による。しばらく待つとホテルに現地案内人が現れた。このホテルに2泊して明後日8時に出発する。明日は朝晩の食事はホテルだが、あとは自由行動だそうだ。万歳! 事前の調査はしてないが行ってみたい所がある。

 翌日、地図を片手にまず市場に出かけた。巨大な市場で、古いロマネスク風の2階建ての建物が、格子状に並び、通路の部分はガラスの天蓋が架かって明るい。しかし、アーケードのように店舗が建物ごとに独立しておらず、やはり市場だ。肉や魚や野菜はもちろん衣料品、雑貨、何でもある。夏の暑い日ざしがガラスの天蓋から容赦なく照りつける。薄着で上気した顔の主婦達が買い物に夢中だ。ぼくは、そんな雑踏の中をカメラ片手にすり抜けようとした。その時、どーんと肩に強く当たった。瞬間、感触で大きな胸に当ってしまったと思い、ごめんなさいと振り返ったが、それは二の腕であった。とにかくこの国の主婦は横に大きい。あの抜けるように白い肌の娘時代と同一の人種にはとても思えない。メロンとハムとパンを買って昼にした。

 午後からどうしても見たかった地下鉄にチャレンジした。当時、モスクワとパリの地下鉄は有名であった。赤の広場に戻り、地下鉄の入り口らしき場所を見つけた。地下鉄にしては立派なエントランスだが、照明は暗い。どのようなシステムかと考えていると、アラブ系の顔のおじさんが、僕の肩をたたいて、「カイタイセイコー カイタイセイコー」と話しかける。何のことか解らないので、ちょっと肩をすくめると僕の腕の時計を指して「買いたいセイコー」といっているのだ。父からの入学祝の時計だ。「ごめん! NO!」 といって断ったが、そんなにも日本製が人気なのかとちょっと気分を良くした。しかし、4列に並んだエレベーターは奈落の底と思うほど深い地下に向かっていく。しかも、蛍光灯が使われなく暗いのである。モスクワの地下鉄は防空壕も兼ねていて世界一深いそうだ。どのようにチケットを買ったのか記憶に無い。ホームに入ると大きな労働賛美の絵画が書かれたアーチになっており、巨大な空間が開けている。たしかに、地下鉄に寄せる並々ならぬ国の情熱を感じる。郊外まで出て、また戻った。

 翌日、再びイリューシン機でモスクワを飛び立った。さすがにもう恐ろしさは無かったが、今度は通路側の席だ。好奇心いっぱいの僕にとってこの差は大きい。ただ座席に座って時の過ぎるのを待つのはほとんど修行に近い。結局スチュアデスさんの品定めなんかしてしまう。若くは無い人でもさすがに町の主婦とは違ってスレンダーだ。しかし、美人でもちょっと怖そうだ。よく見ると薄い髭なんか生えたりしている。そんなのんきなことを考えながらストックホルムに向かった。

 

 

2008年5月27日

イタリア放浪時代 4<シベリア鉄道>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 6:36 PM

 ナホトカはシベリア鉄道の東の終着駅である。しかし、特別の建物があるわけでない、草原に小さな駅舎と低いプラットホームが何本かあるだけだったような気がする。なんと言っても30年も昔の話だ。しかし、さすがに列車はずいぶん大きくて戦車のように頑丈そうだ。中に入ると6人の個室になって寝るときは3段式のベッドに変えられるようだ。そして、トイレと洗面所とシャワー室(有料?)が付いていた。

 行けども行けども車窓は変わらず、なだらかな丘にカラ松林と草原だけだ。やがて夕陽が沈み夜の帳が下りる。ぼく達は食堂車に案内された。そこは映画で見たヨーロッパ横断鉄道と同じだ! 列車が大きいから左右に4人掛けがゆったり座れる。食事も美味い、これがボルシチかと思うようなシチューと酢味の半茹でのキャベツのサラダと黒パンだ。そして食後はやっぱりウォッカで乾杯になった。 そして思い出した。旅行会社でチケットを探した時、たしかシベリア鉄道走破のコースは有った。バイカル湖なんか見たいと思ったが、時間と食事代が心配でやめた。たしかに何週間もこの贅沢を繰返すことはできなかったと、その思いをウオッカといしょに飲み込んだ。

 席に戻るとベットがすでにセットされ、若いからと上段に横になった。シベリア鉄道の重々しい振動が心地よく背中に伝わる。しかし、眠るにはまだ早く、車窓に目を落とすと、月明りに淡く照らされる景色だがほとんど灯りが見えない。ここらに人が住んでいるのだろうか? まるで宮沢賢治の銀河鉄道に乗ったような錯覚に陥る・・・・

 翌朝、ハバロスクに到着した。東部では最大の街で、さすがに、駅舎も街路もロマネスク風と言うかロシア王朝風の建物が点在していた。人々の純朴そうな風貌は変わらないが少し欧州系が多くなったような気がする。昼食に入ったお土産店に白樺の木をくりぬいていくつも同じ形を小さくして作るマトリューシュカ人形がたくさん並ぶのを見た。これこそ寒くて長い冬の代表的産物で、アメリカと争うソ連でなく本当のロシアの姿のように写った。混血だからなのか店の売り子のなんともかわいいこと。なんとなく好きになれなかったソ連のイメージが少しづつ変わってゆく気がする。

 殺風景なハバロスク空港に足を踏み入れた時、ソ連の国営航空アエロフロートは信用しても良いのか? 無事故記録を続けていると聞いても、ソ連の情報ではと、生まれて初めて飛行機に乗る僕としては不安でたまらない。しかし、今更じたばたしてもと、居直るしかなく、覚悟を決めて乗り込んだ。パイロットは軍人あがりで経験が豊富な人が多いらしい。他の飛行機を知らないが、この時のイリューシン機の離陸は安定して思いのほか快適であった。見渡す限りの平原と思ったが良く見ると山並みも多い。やがて、広大な砂漠らしい景色に変わったりしている。今でも飛行機からの景色は飽きることが無いが、初めては格別であった。食い入るように見つづけると、あ!海かと思ったが、それがバイカル湖だった。鉄道なら何日かかった事だろう。飛行機は湖北をかすめてモスクワに向かった。

 

2008年5月23日

イタリア放浪時代 3<ナホトカまで>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 3:13 PM

 僕たちのグループは乗船するとすぐに3等船室に案内された。2段ベッドの4人部屋だが、荷物を置いて寝るだけだから問題は無い。すぐにデッキに出ると、あまり大きい船で無いと思ったが、デッキからは3階の屋上から見下ろすほどの高さは有る。下で友人がテープを投げろと合図をしている。10本ほどの5色のテープを1本ずつ狙って投げると4~5本は届いたようだ。数十人で交わすテープだが、離岸して切れる時の気分はたまらない。新しい世界に羽ばたくと言うより、追われるような後ろめたい気がするのは何故だろう。

 5月の薄もやの東京湾をセンチメンタルな気分で金沢八景、観音崎とかすめて外海に出た。しかし、太平洋の大きな波にゆっくりローリングする頃にはすっかり開放され、昨日までの疲れと重なり睡魔に襲われデッキチェアーにうずくまった。

 緩やかなローリングに揺れながら、心地よい潮風に目覚めると、体中に力がみなぎるのを感じる。 そーだ! イタリヤに向かって出発したんだ! 朦朧とした頭の中で思い出し、じんわりと嬉しさが込みあげ、眩しい夕陽に手をかざし「太陽がいっぱい」のメロディーを口ずさんでいた。

 津軽海峡を越えたあたりで、すっかり暗くなり。下に降りると、レストランのテーブルにグループ名が書いてあり、デッキで顔見知りになった叔父さんと座った。ディナーは簡単なコースだが悪くない。片隅にバーコーナーが有って酒も頼める。せっかくロシアに入るのだからと、名前は忘れたが猛烈に強くて甘く感じるウオッカを注文した。飲みながら、3週間ほど前の旅行説明会を思い出していた。会場に着いた時はもう始まっており、チケットと予定表など渡され、ちょうどリーダーを決めていた。20人ほどのグループで、どうも引率者はいないツアーのようだ。リーダーがその都度、人数を確認するらしく、要所では現地スタッフが説明してくれるらしい。旅の注意事項の説明があって、最後にストックホルムで解散です。当日はパスポートとチケットを忘れずに、と爽やかにいったので、その時はそんなものかと思った。そして、食事の心配は無いし、何も考えなくても連れて行ってくれる。ツアーは素晴らしい! と幸せな気分で杯を重ねた。船で風呂を浴びたかったが、面倒になってそのまま二段ベッドで眠った。

 翌朝、爽快な気分でデッキに出ると朝霧の中に丘が連なるのが見えた。ついに初めて、外国の地に足を踏み入れるのだと、気持ちは昂ぶった。あまり大きくない湾に軍艦や、潜水艦が黒々と浮かんでいる。ここはウラジオストックと並んで、ソビエット連合の極東の重要な軍港なのだろう。もちろん撮影は禁止だ。なんとなく、おびえた気分で奥の桟橋に停泊し、下船し、監理事務所に入り、手続きをすませた。ぼく達のグループは向かいのビルで、黒パンと紅茶で、朝食を摂りながら、日本人の現地案内人が説明した。、ここからはソ連です。残念ながら、許可なしに自由行動はできません。すべて、インツーリスト(国営旅行管理局)の案内になります。なお、換金は自由だが、逆にルーブルはドルにも円にも換えられない。必要なだけ換えてください。なお、すべての軍事施設の撮影は禁止です。ちょっと身が引き締まるのを感じた。

 バスで廻ると街は北海道あたりの港町とあまり変わらず、人々は質素で純朴そうである。アジア系の顔も多く、しかし時々抜けるように白い肌の娘さんに出会うことがある。そんな時は異国に来たと感じる。街のレストランでシチューと黒パンの昼食をして鉄道の駅に向かった。

2008年5月20日

イタリア放浪時代 2<出発>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 10:09 AM

 あの頃、竹中工務店の本社は神田美土代町のYMCAの前にあった。サラリーマンの経験の無い僕は戸惑った、Tシャツにジーンズではまずいらしく、バイトだからというわけでジャケット姿だけどネクタイは勘弁してもらった。14~5台の机が並ぶ第1制作課(オフィス、ショッピンググループ)の課長さんに紹介され、スタッフは皆それぞれ別のプロジェクトを抱えているようだ。窓側の一番前の模型材料などが並ぶ席に座らされた。順応性には自信があったが、さすがに気後れした。

 近くのビルに別室が借りてあり、そこで池袋のS鉄道の駅舎と百貨店等を含む6棟ほどの関連ビルの大改修計画が進められており、まもなく、そのプレゼンテーションの応援を頼まれた。それぞれのビルを全部つなぐと300mにもなる。手書きの時代だったので畳1枚分の特製ドラフターが用意され、その上で200分の1の立面図を書き写すのが僕の仕事だ。こんな大きな図面を書いた経験はもちろん無い。同じ頃に大手町のS新聞の本社の大改修及び増築工事も進んでいた。進行中のビル内の店舗が10軒ほど移動で作り直さねばならない。わがチームにはこんな小さな仕事を受ける余裕のスタッフはいない。そんな訳で、これが僕が最初に担当する仕事になった。バイトなのにいいのかなと思いながらS新聞不動産部と店のオーナーの話を聞いてまとめた。

  慣れてくると、ここは大変なセクッションであることに気が付いた。いわば設計技術の中枢である。スタッフは大変なエリートで、しのぎを削って集まっている所だ。そのぶん仕事は面白い。しかし、偉くなる必要の無い僕だけは気楽なもので、忙しくてイタリア語の講習に行けないので、テーブルライトに単語を書いた紙をぶら下げながら勢いだけで仕事をしていた。

 そのうち、A副部長が僕を現場から呼んだ本当の理由がわかった。課長には部下が居るが、副部長には直接の部下が居ない。しかし、副部長はいろいろな新しい営業をする必要がある。確定した話はもちろん課長にまわせる。しかし、時には不確定のものでもプレゼンテーションしなければならない。そんな時、僕のような遊撃隊がどうしても必要だったのだ。年上の課長に遠慮してか、打ち合わせはいつも夜になった。そのようなプロジェクトは1週間ほどでまとめなければならない。しかし、ここは設計部の中枢である。隣の席に構造課があリ、その隣に設備課がある。おまけに少し離れた場所に法規をチェックする課とパース(完成予想図)課もある。なんと言う恵まれた環境だ! すべて自由に使っても良いのである。仕事が楽しくて仕方が無く、残業時間が100時間をはるかに越えていた。

 1年程で貯金も予定の3分の2程になったので、A副部長にイタリア行きの話をしたが、君もやっと形になり始めた、あと1年がんばれ! と妙な形で励まされた。たしかに設計者として勉強になたことは間違いない、従うことにした。もちろん副部長からのプロジェクト依頼は続いた。そんな時、わがチームには場違いだが、進行していた雑誌社の銀座ビルの関連で、文士のために建てる軽井沢寮も設計することになった。ビックプロジェクトばかりこなすチームの中で、木造で、こんなにのんびりした仕事に携われるのは他におらず、担当になった。うれしくて、天井からボードを下げスケッチを何枚も書いて貼ると周りのベテランが面白がっていろいろの意見を言ってくれた。そして、こんな環境で1級建築士を受験することになった。幸いにして学科は合格したが、自信があった実技で失敗した。この資格を持ってイタリアに行きたかったが残念だった。

 年が明け、3月で退社することにした。2ヶ月の準備期間で6月のペルージア大学の講義に間に合わせるためだ。その頃、チームでは日本最大のべンチャー企業であるM社の軽井沢工場を設計している関係で、田園調布の社長邸も依頼されていた。A副部長から何案持って行ってもOKがでない。思い切り斬新なアイデアを出してくれと頼まれた。当時、世界を駆け巡る社長はジェットヘリで軽井沢まで通うほどの大実業家だ。下町育ちの僕は豪邸というものを知らない。考えあぐねた末、ハリウッド映画で見たノイトラの住宅を思い描いて案を練り、模型を作って持ち込んだ。神田の事務所は軽井沢の工場とは違い、びっくりするほど普通の倉庫の最上階にあった。案内された部屋で社長と副部長が向かい合って座っていた。不安そうな副部長の横に腰をおろし、箱を開けるとそれをジーと見た社長がにんまりと笑った。そこで決まったようだ。そして、これが竹中工務店での最後の仕事になった。

 竹中工務店には本当に感謝している。この期間が無かったら今の僕は無かったであろう。 さあ出発準備だ! と思ったが、A副部長から少し休んだら、1ヶ月間で芝浦の冷凍倉庫の確認申請をまとめてほしいとの依頼がきた。とても断れない。1週間でイタリアまでの安チケットとペルージア大学の入学申し込みとパスポートとビザの手続きをした。すぐに新橋の烏森あたりの古いビルに監禁されることになった。ここは午後の数分しか日が差さない3階で、6畳ほどの部屋に製図版と机と図面庫が置かれ、湯沸し室とトイレをはさんだ奥に施主である倉庫会社の社長と秘書の女性がいるだけだ。1日中ひとり巨大冷凍倉庫の申請書の作成に奮闘し、何とか出発の1週間前に終了した。

 それからの旅行準備が大変だ。ジュラルミンの特大バックを探し、アメ横に入り浸って米軍お下がりのジーンズやジャケットを買い漁り、何がなんだかよくわからないうちに出発の当日が来た。まだ飛行機は贅沢だった頃で、安い運賃を探すのは大変だった。新橋辺りの旅行会社を探しまくり、半分だけツアーにもぐりこむ不思議なチケットを見つけた。北周りでいろいろ乗り継ぎ、ストックホルムまでは団体で後はオープンだという。忙しいこともあって、その時はあまり疑問は持たず、値段で決めた。そんな訳で出発は横浜から船になった。

 友達が面白がって、まるで出征兵士の見送りのようにたくさん集まった。盛り上げ好きの友にテープまで持たされての出発になった。出航のドラが鳴ったの時はさすがに長い願いが叶った感激で、熱いものがこみ上げた。 さあ!イタリアに向けての出発だ!

2008年5月14日

イタリア放浪時代 1<出発まで>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 1:32 PM

猛烈な忙しさの中で何とかこの船に乗ることができた。開放された気分の僕は大きくローリングするデッキチェア-から夕陽をながめ、両手広げて背伸びをし、”太陽がいっぱい”のメロディーを繰り返し口ずさんでいた。

貨物船であるが、50人ぐらいの客も乗せる船で横浜からナホトカに向かっている。もちろん客用のデッキもある。デッキチェア-が並び、5m角くらいのグランドチェスがあり、散策するぐらいの広さはある。乗客のほとんどは若者で欧米人が多い。今で言うバッグパッカーの走りというか、ベトナム戦争で指針を失ったヒッピー達のエネルギーの発散の場所であったのかもしれない。隣のデッキチェア-で寝ていたチャン君は中国人かと思ったが、ベトナム人で、なんと三島由紀夫の「他人の仮面」の英語版を読んでいた。胎児の記憶が理解できるのか? とたどたどしい英語で聞いたら、なかなか面白い、「金閣寺」も良かったといった。

ワンダフル! たぶん三陸沖だと思うが、何十頭ものイルカが水しぶきを夕陽にキラキラと輝かせて船と伴走している。僕の旅を祝福してくれているんだ! なんて、この時は正直浮かれていた。

35年以上も昔のことだ。美大で助手をしていた僕は、70年安保で閉鎖された大学を後に、何をしたらいいのか解らない時を過ごしていた。何をしても不燃焼な気分で就職もせず、友人と3人で目黒にアパートを借り、新宿辺りをぶらついていた。ただ、世の中にデザインなんて言葉が認められ始めた頃で、時々、美大の建築を出たんだからと飲み屋や住宅の設計依頼や、あちこちの設計事務所の手伝いで生活をつないでいた。そんな鬱積した中で、子供の頃から憧れていたミケランジェロやダ.ヴィンチを見たい気持ちが膨らみ始めた。イタリアだ! イタリアに行こう! イタリアで生活して仕事がしたい! イタリアでジーナ.ロロブリジータに逢いたい! と妄想を膨らませた。

しかし、1ドル360円の交換レートで海外持ち出し外貨は2000ドルまでと決まっていた頃の海外脱出は今では想像しがたい。初任給が3~4万円だった頃で、旅費と合わせて少なくても100万円以上はかかる。どのように貯めて良いか解らない。いまさら公費留学を頼めるとは思わないし、考えてもいなかった。 とりあえず、稼ごう!

まず、言葉だ!イタリア語を教えてくれる所なんて有るのか? インターネットの無い時代の情報収集は大変だ。考えあぐねた末、大使館に聞きに行くことにした。大使館は高輪の閑静な森の中にあった。秘書課の日本語を話す素敵な婦人はとっても親切に教えてくれた。九段にイタリア文化会館があってイタリア語を教えていること。2ヶ月以上の滞在にはビザがいること。さらにペルージアには外国人大学があり短期コースでも学生書が発行されること。それはビザ取得の対象にもなり身分が保証され、欧州中で学割がきくこと。等

金になる仕事ならと、1年ほどがんばったがそう簡単ではない。予定額には遥かに届かないが時間だけは過ぎた。しかし夜のイタリア語の授業だけは欠かさなかった。そんな折、竹中工務店に勤めるT嬢の紹介で大井阪急ホテルの現場設計要員として1~2ヶ月手伝うことになった。ここで設計者としての実力の無さに唖然とするわけだが、落ち込むことは無かった。そこでの僕の役割は本社設計部の出向先の留守番役だった。つまり、何千人を束ねる現場所長と対等な立場だ。

設計室は所長室の隣で、下請けの製作図面を書くスタッフの図面台数台とほとんど昼は空席の本社設計部の数台(1台は僕用)と事務の女性とカウンターの20坪ほどの現場事務所だ。仕事は下請けからどんどん出来上がる製作図のチェックと整理だ。もちろん僕にチェックする能力は無い。図面やリストを受け取り、夕方現れる本社の設計部の人にチェックを受け、後日下請けに伝える役目だ。そのうちチェックにも参加することになり、だんだん量が膨大になる。しかし、この作業はいい勉強になった。じょじょに意見も言うばかりでなく、いっぱしのデザイン論をぶつまでになり、帰りはいつも9時、10時はあたりまえだ。すると、大井町あたりで酒になリ、さらに設計部の人たちと親しくなった。

大井阪急ホテルは既存のデパートや銀行など集めた複合ビルで、日本で最初の本格的なビジネスホテルだ。オールシングルで風呂は16階の展望浴場にだけという当時としては斬新なものだ。そして、この展望浴場のタイルの割り付けを任され、その後鍵の系統図等を任され、気付いたら半年以上も勤めていた。現場も終了の近いある日、設計副部長のAさんから、本社で手伝わないかといわれ、イタリア行きの資金が貯まるまでなら、とお願いした。そんなわけで残務も終えて竣工パーティーまで出席することになった。

2008年5月1日

イタリア時代の回想 <アッシジ>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 2:39 PM

もう深夜に近い時間だったが、テレビで、懐かしいアッシジの街を歩き廻る番組を見た。あまりの懐かしさに、興奮してしまって眠れぬ夜を過ごした。

あれはもう30年以上昔の事になるだろう。当時、僕は無謀にもただイタリアを見たい。そこで仕事をしてみたいだけで、中部の街ペルージアの外国人大学で6月から9月までの短期イタリア語コースに入学した。通い始めてすぐに教室のバルコニーから遥か向こうの小高い丘に霞んで見える白い街が気になってしかたなかった。皆に聞くとどうもあれがアッシジらしい。居ても立ってもいられなくなり、日曜日に探索に出た。

イタリアの多くの旧都市は、山の頂にあり、平地を走る列車の駅には街区が無いことがある。アッシジも駅舎だけで、切符売り場も兼ねる雑貨屋兼バル(カフェー)と農家が数軒あるだけだ。わずかな街区を抜けると、もう山すそまで見渡す限り、刈入れ前の黄金色に揺れる麦畑であった。その先を見上げると、列柱の石垣の上に聖フランチェスコ寺院が建ち並び、それにつながる住居群がまるで丘に載せられた白い冠のような姿で目に飛び込んできた。なんと言う豊饒な景色であろう。

夢中で麦畑の道を駆け登り、石のゲートを抜けると、薄い琥珀色の石積みが夏の日差しに照らされて真っ白に見える。掃き清められた道のちょっとした段差や、曲がり角のマリア様、窓辺の植木鉢など、そちこちに手入れの行き届いた緑がある。その中から真紅のバラや黄色やピンクの花が咲きこぼれ、なんと美しい街だろう。

坂道の石積みの壁にアイアンワークの看板をかかげた店や工房がある。入口の横になにげなく置かれているベンチ。小さくうねる壁は何度も塗りこめたり、開けたりしている窓や門がある。崩れかけた石垣の上からこぼれ落ちそうなバラや葡萄の弦とそれに絡む緑の葉。そこに行き交う修道士や街の人々。すべてが映像か、あるいは幻想の中のことのように思える。これこそ、僕の見たかったイタリアの街なのだ!

突然、聖フランチェスコ大聖堂の広場に出た。見上げたときほどの威圧感は無い。入ると地下の礼拝堂にと聖フランチェスコの霊安室に案内され、それから大聖堂にまわった。さすがに素晴らしい! それまでイタリアびいきの私にしては唯一あまり好きになれなかったのが宗教画であったが、ジョット-の一連の壁画をじっくり見て、少し変わったような気がする。建築家の絵であることで親近感を持ったのかもしれない。

昼をパンと牛乳ですまし、その後も、細い路地を歩き廻ったのは言うまでも無い。そして夕日に照らされた聖フラチェスコ寺院を何度も振り返りながら、麦秋の中を充分に満たされた気持ちでペルージアに戻ったのを昨日のように思い出す。

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