2008年8月29日

イタリア放浪時代<ペルージア8>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 11:51 AM

 その年、ペルージアに現れた日本人は二十歳前後の若者が多く、26歳の僕には皆が少し子供に見えた。そんな中で、やっと大人の香りのする奴が現れた。一流企業のセールスマンを経てアメリカで暮らし、ペルージアにやってきた男だ。名を畑山五郎と言い、互いに大人の話ができると言うことで、親しくなった。彼はその大人っぽさで皆にゴローさんと呼ばれた。

 ペルージアに来る2ヶ月ほど前から気になったことで、アドレア海に面する街アンコーナの地震の被害を新聞で読んでいた。地図で見るとペルージアのまっすぐ東の港町である。石造りの街に起こった地震は建築家としてとても興味があり、またアメリカの話も聞きたくてゴローさんとツヨシを1泊旅行に誘った。いつも芳しい匂いを立ち上らせている下のパン屋で、クッションほどの大きな固いパンを買い込み、こんなことがあろうかと日本から持ち込んだ水中眼鏡とモリに柄をつけて、今晩は浜辺で海の幸のパーティーだと言って朝早くから電車で向かった。

 アンコーナの旧市街を見て驚いた。その被害は相当なもので、さすがに道路の残骸は片付けられていたが、石造りの脆さをまざまざと見せ付けている。道路に面する石積みの壁はかなり残っている。しかし木の梁で渡してあるはずの床が落ちて無いのである。道路に立つと、壁の向こうにそのまま青い夏の空が透けて見える。舞台セットのようで現実感がなく、恐ろしい光景である。たぶん日本の街であれば焼け野原で何も無いのと同じ状態である。しかし、石造りの街には驚かされる。人々にエネルギーさえあれば、そこに残された石を再び積み直したり、新しい様式を加えたりして造り直す事ができる。これこそが東西文化の大きな違いかもしれない。よく見ると、めちゃくちゃと思われたアンコーナの街も片隅から着実に再興し始めているのに気づく。何年か後に立ち寄りたいものである。

 海には地震の爪あとはない。素晴らしい砂浜で思わず走り回った。程よい岩場を見つけて潜ってみた。しかし水はとても綺麗だが、日本の海とは何かが違う。海藻が少なく、魚影がほとんど見えない。地震のせいかとも思ったが、海はつながっているはずだ。そうか!地中海だからか!海は大きいが、ジブラルタル海峡でくびれている湖みたいなものだ。干満の差も少ないと聞く。おかげで今日の漁はさんざんで、イカもタコも無い。有るのは波打ち際の黒々としたコッツエ(烏貝)だけである。海辺のユースホステスに宿を取り、浜でのパーティーは残念ながら持ってきた巨大なパンをアーミーナイフで削りながらジャーキィーとチーズとワインだけで終った。しかし、焚き火を囲んでの三人の話は尽きることが無かった。特に、正反対の二人のアメリカ生活はおもしろく、ツヨシの皿洗いをしながら会計士の資格を取ったことや、ゴローさんの二世である婚約者の家族は古き良き日本人の心を持ち、より日本的である話しに感動した。

 

2008年8月21日

イタリア放浪時代<ペルージア7>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 1:01 PM

 僕の部屋でのパーティが好評で、その後もよく集まった。しかし、まもなく大阪から来た調子者の武史がベッドで飛び跳ね支え棒を折ってしまった。これはロープできっちり補強できたが、後日、こんどは修一が手造りの毛糸で編んだパッチワークのベッドカバーの真中にタバコの灰を落として穴をあけてしまった。正直これには困り、1日がかりで懺悔文を書き、おばさんに渡した。そしてできる形で弁償させてください!と申し出た。始めはちょっと難しい顔をしているようだったが、台所の引出しから赤鉛筆を取り出し文の添削を始めた。ベッドのことも分かっていたわよ。しかし、あなたから申し出てくれたのでこの件は許してあげましょう、と言って大きい眼でウインクし、添削した懺悔文を返してくれたくれた。このおばさんはただ下宿をしてるだけでの人ではないと熱いものを感じた。

 学校の北西にメンサポポラーレ(国民食堂)つまり、低所得者のための救済センターの食堂があり、ぼく達は学校の帰りによく立ち寄った。もちろん誰でも入れる食堂だが、やはりお年寄りが多い。450リラ(225円)でパスタとお肉と1/4リットルのワインが出る。これにはずいぶん助けられた。しかし、このワインは飲めないわけでないが少し味が変だ。新宿のボルガの木葡萄と同じ味がする、たぶん葡萄の原液にアルコールを入れたものだろう。しかし、贅沢を言ってはいけない1ヶ月3万円である。このメンサポポラーレの前を北に向かって尾根ずたいに登るとロマネスク様式の八角形の古い教会が有る。日曜でなかったので中には入れなかったが、落ち着いた美しい教会である。

 教室のバルコニーから眺めるとこの教会をさらに尾根伝いの東に頂上が白く輝く丘がある。アッシジのように遠くはないが、僕としては気になって仕方がない。誰に聞いても分からない。ある日、カメラとお弁当を持ってピクニック気分で訪ねると、そこは立派な墓地だった。ペルージアの歴代の墓地であろう。真っ白な大理石で造られたミニチュアの都市である。円形回廊や列柱がありドームがある。それがみなカラーラビアンコ(最高級白大理石)で出来ているのだ。イタリア人の考える理想郷なのだろう。中央の大きな神殿のような建物は立体式の墓で、扉には陶器で焼かれた写真が掲げられている。花とローソクで飾る敬虔な姿はほんとうに胸を打つ。そのあたりを抜けて更に進むと同じ十字架が何千基と芝生の丘に整然と並べられている。宗派の違いか、戦没者なのかはわからないが、糸杉でいくつかの区画にわけてあるが、かなりの広さだ。ここもしっかり清められていて宗教を越えて先祖を敬う心が清々しい。

 城壁の東の外側には住宅の中に映画館があった。週変わりの名画座のようで、ちょうど三船敏郎が主演の”トラトラトラ”をやっていた。突然日本映画に出会えて嬉しくなって入った。しかし残念なことに映画はイタリア語に吹きかえられていた。それはとても不思議な感覚で、自虐的な気分になったのか、普段何気なく使っている言葉も外国人から見ると滑稽で、不気味に写ったりすることも少し分かるような気がした。この映画館の並びはペルージアでは下町でパスタの美味しいレストランや靴屋さんもある。

 ついでに紹介すると、もう少し裾の方の石積みの住宅街に山梨県から来た二人組の友人のアパートがある。夕食を招待されて遊びに行くと、この辺は敬虔なカトリックの信者が多いらしく、モラルがとてもうるさいらしい。友人が来た時は男女問わず窓を開けておかなければならないと言う。ましてや女の子なんか連れ込んだら大変だと言って、僕が行った時も窓を開いて食事をした。しかし、運輸会社の息子だった彼はなかなかの二枚目でしかも少しニヒルな顔立ちで、外国人の女の子に対してじつにまめに接する。またその立ち居振舞いもとてもスマートで、こんな日本人も居るのかと思うほどモテまくっていた。本人みずからそのために来たと豪語する彼の生き方もすごく印象的であった。

 

 

2008年8月14日

イタリア放浪時代<ペルージア6>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 2:57 PM

 約束の日、ウバルトのお目当ての北沢君はもう帰ってしまった。マリコたちに話したら、それなら”ゆかた”を着る!と言ってくれた。いつもの雪駄を履き、二人のゆかた姿のお嬢さんを引き連れてのパッセジャータは僕たちにとって最高のパフォーマンスである。ウバルトも友達を何人か連れてきたが、この出迎えには喜んだ。バルのテーブルで盛り上がったのは言うまでもない。ただ、ウバルトは40歳ぐらいで、その友人も同じ年頃の紳士達だ。飛び交うイタリア語が少し絡んでいなかったのは年齢のせいか、語学力のせいか分からない。別れる時、今度の週末に君たちを家に招待したいと言った。もちろん喜んで受けることにした。

 仲間にこの話をすると、ちょっと話が出来過ぎている!とか、もっとひどい奴はウバルトはホモでお前を狙っているのではないかと言う奴もいた。しかし、受けた以上はこれも国際親善だと思い、日本から持ってきた扇子と風呂敷をお土産に、やはり言葉の壁は大きいと考え、アッズーロ(和志)も連れて行くことにした。

 週末に2台の車で迎えに来てくれた。夕闇の田舎道を20分程走った。どこをどう走ったか分からないが、あたりが薄暗くなった頃、突然大きい門の前で止まった。広い庭に4~5台の先客の車がある。薄暗くて分からないが、かなりの豪邸のようである。案内されて横から中に入ると15帖程の部屋で8人ぐらいの先客がワインを傾けていた。同じぐらいの年齢の男女でこれが何の集まりか分からない。ひとまず自己紹介をしたが、皆、特に着飾っているわけでなかったので安心した。

 さすがに、アッズーロは頼りになる。通訳付きだから話が弾む。宗教家の北沢君が帰ってしまったことの謝罪から始まり、話はマリコとクロちゃんの浴衣姿に移り、日本の文化になった。そして、最近の優秀な日本車はイタリアにとっては脅威だとか、他の工業製品についても驚嘆している事など教会の石段とはすこし違う話になった。やはり今日は何かの会に特別参加させてもらっているようだ。イタリアのような都市国家だと”アミーコの会”と言って街をリードすると自負している人たちで集まる会があると聞く。そんな会であったかもしれない。パスタとお肉は美味しいことは言うまでもないが、食前にワインと一緒に出されたチーズとプロシュートはここで作っているのか絶品だった。あまり遅くならない頃合に真っ暗な夜道をウバルトに送ってもらった。帰り道で、来週はそちらに行きたいと提案された。かまわないが、下宿なので食事でもてなすことが出来ないと答えると、心配するな食事は終えて、酒を持って行くと言った。

 次の週末に僕の部屋に、先週の4人はもちろん修一とステルジョスや他に2~3人が集まった。マリコたちの手造りのおつまみやそれぞれ日本から持ち込んだ食料でパーティーの準備は出来た。やってきたウバルトは両手に赤と白の4リットル大ビンを1本づつぶら下げて現れた。この自家製ワインの美味しさ格別で皆喜んだ。そのうちクロちゃんがウバルトにと日本から用意した折り紙で鶴を折ってプレゼントした。これが好評で、男達も負けじと飛行機を折って部屋で飛ばし始めた。しかし、なんと言ってもこの夜のスターはあの頼りなかったデザイナー修一である。彼は3cmほどの帯に切った紙で大小二つのリングを作りV形の棒状にした帯の前後に糊付けして不思議な飛行物体を作った。これを飛ばすとなんと実に優雅で未来的な動きをしながら部屋をゆっくり舞った。これに感激したステルジョスは俺の妹を嫁にやる!と叫んで修一の手を取った。拍手が起こり、以後、修一はプロフェッサーと呼ばれるようになった。

 ステルジョスは真剣で、修一に妹の写真など見せて話をした。かなりかわいい子だったようで、修一もだいぶ心が揺れたようだ。しかし、あの国で婚約して裏切るようなことをしたら一族で一生狙われるぞと脅す奴もいて、修一はギリシャに行く勇気を出せなかったようだ。

 

2008年8月7日

イタリア放浪時代<ペルージア5>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 10:35 AM

 西側から教会にのぼる細道の石段で、大きなカバンを持って疲れてへたり込んでいる若者がいた。猫背で髭面だが、小柄でどうも日本人のようだ。「どうした?」と聞くと今たどり着いたところで、学校に行かねばならないが、もう疲れて動けない。金沢からデザインの勉強に来た。部屋を探したい。というのが精一杯でもう寝込んでしまいそうだった。放って置くわけにも行かないので、見かねてマリアテレジアおばさんに頼むと、3階ならば空いていると言われた。これが頼りないデザイナーの関田修一との出会いである。修一が3階に住むようになり、下のギリシャ人たちとも親しくなった。特に田舎の坊ちゃんタイプで日本が大好きで家にはフェアレディーZが有ると言ったステルジョスと親しくなった。こんどギリシャに来てくれ!アテネのルーチェロッサ(大人の歓楽街)にいつでも案内する! と言ってくれたので、街で逢うと親指を立て「ルーチェロッサ!」と叫んでウインクするのが僕らの挨拶になった。

 ちょっと気取り屋の和志は公費留学の外語大のエリートで始めから鼻持ちなら無い奴だと思っていた。2週間目ぐらいにウルビーノ大学の何とかの招待で2週間ほど行かねばならないと言って出て行った。しかし、帰ってきた姿に驚かされた。薄革のひらひらのついたのベストに同じ革のテンガロンハットのカーボーイ姿までは許されたが、首に巻いたアッズーロ(水色)のスカーフは小林旭を完全に超えていた。ここまで突き抜けると、かえって面白いキャラクターだとも思った。以後彼はアッズーロと呼ばれた。

 もう一人のテンガロンを被って現れた男の話もしなくてはならない。でかい顔に上が少しさびしいのに肩までたらした汚れた髪、短い足にカーキ色のずた袋。しかし、よく見ると愛嬌の有る細い目をしている。アメリカからイギリス経由でヒッチハイクでやってきた。学校に来たわけでなく、しばらくここに滞在してアフリカにでもヒッチで行こうかと考えているらしい。ツヨシと名乗って、出身は千葉県の習志野だと言う。自称空手家で、日本を出てからもう4~5年になるらしい、ほとんどヒッピー同然の彼はアメリカではいろいろの仕事をしたといっている。下宿を紹介したいが、この汚さではおばさんに受け入れてもらえるとは思えない。もっとも彼なら宿探しの心配は要らない、世界中のどんなとこでも暮らせそうな男だ。

 ユニークな奴ばかりだが、もう一人紹介しよう、北千住の靴屋の息子だと言う北沢君も教会の階段で拾った奴だ。彼はただの旅行者で後を継ぐのだからイタリアぐらい見ておかなければと思ったらしい。何気なくペルージアに寄って教会の石段でボーとしているところに声をかけたようだ。とても立派な顔をしているのだが、この男には何を見たいとか知りたいとかいう探究心や好奇心がまるでない。特に見たいものは無いので、4~5日一緒について廻ってもいいですかと言いだす始末だ。女の子ならともかく、皆の食事代ぐらいは出すかと冗談を言ったら嬉しそうな顔をした。仕方が無いので修一の部屋に泊めて連れまわすことにした。

 翌々日に”ニキータ・マガロフ”のピアノリサイタルが市民ホールで開かれた。中世に栄えた古い街にはスカラ座のようなホールがある。ペルージアにも必ずあるはずだと思っていた。北沢君に行くか?と聞いたら「クラシックだめなんです。すぐ寝てしまいます。」と言った。 これも修行だ!姿勢を正しく、黙想していろ! と突っぱねて連れて行くことにした。ミラノのスカラ座を小さくしたような劇場も良かったが、演奏も悪くはなかった。休憩時間に、僕の隣の席のイタリア人が背筋を伸ばし黙想を続ける北沢君の姿を見て、彼は何時もあのような姿で音楽を聞くのかと、感激したように聞いてきた。ちょっと答えに困り、先日からのディベートの延長で、彼は宗教家で音楽も禅と同じような形で聞くらしい。と調子の良いことを言ってしまった。

 後半の彼は演奏より北沢君しか見ていなかった。かわいそうなのはそれに気づいた北沢君で、最後までまんじりともせず黙想しつづけることになってしまった。幕が下りると、このイタリア人がバルで話したいと言ってきた。もちろんこちらに断る理由がない。名をウバルトと言った。日本文化と禅に興味があるらしく北沢君にいろいろ聞いてくる。それを僕のつたないイタリア語でかってに通訳をするわけだが、始めの嘘がだんだんと膨らんでしまう。言葉の分からない北沢君は時折おもむろにうなずいたりするだけだ。これがまた神秘的に写るらしい。明後日6:00にパッセジャータで逢おうと約束して分かれた。

 

 

HTML convert time: 1.408 sec. Copyright ©2007 ikenogumi.inc