2008年10月29日

イタリア放浪時代<ミラノ 5>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 9:53 AM

 サンタニエーゼに落ち着いてまもなく、最初に髪ボサ頭で僕を迎えた彼は日本から嫁さんを呼び寄せ、他に住いを探して出て行った。ああ見えて彼には画廊のスポンサーが付くほどの画家の玉子だったらしい。彼が居なくなると食事はほとんど僕が作らねばならない状況で、経済的にも厳しくなってきた。そんなこともあって、落ち着いたら連絡する約束のペルージアのツヨシに連絡をとった。彼もまた、ミラノのコネクションを探していたようで、こちらに来たい意向を持っていた。それには郷田さんも喜んだ。

 そしてまもなく、ツヨシがサンタニエーゼに現れた。ヒッチハイカーの彼だから、自然流料理はお手のものと思い、早速に頼んだ。しかし、彼の初めての買い物におやっと思うものを見つけた。小さいカタクチイワシである。醤油煮でもするのかと思ったが、彼は迷わずトマトベースのソースを作り始めた。程よく煮詰めた所で、生のイワシをそのまま投入しそうになったので、それはまずいと止めたが、肉の代りだと言って聞かなかった。やはりそれはもの凄い生臭いトマトソースとなり、本人以外誰も手をつけることは無かった。そしてしばらくは週に2度現れるツトムちゃんと僕が料理を担当することになってしまった.。

 僕とツヨシが現れたことで、ただ寝るだけだったサンタニエーゼは少しずつ変化し始めた。幸い下の階には誰も住んでなかったので、夜は時々奥のベッドのある広間で、日本拳法の郷田氏と空手のツヨシによる武術研究会とも言うべき「形」の練習が始まり、僕も構えだけは教えてもらった。これで、イタリア人から脅されそうになったら「ファチャーモ カラテ!」(空手するか!)と形だけは見せることが出来る。

 そんなある日、弁護士さんでもある白髪の大家さんが現れ、アパートのあまり汚なさを見かねて、これでは貸せないと宣言された。そこで1週間の猶予をもらい、数日かけて壁や天井を白く塗り、ちょっとお洒落に枠だけを黄色に塗り分けた。見違えるような綺麗な部屋になり、大家さんを呼ぶと「ブラボー ジャポネーゼ ファンタシカ!」と言って喜んで帰っていった。奥まで塗るつもりだったが、これで窮地は脱し、予算も無いのでこれで終わりにした。しかし、これがきっかけで掃除と片付けをすることになり、部屋にも活気が出た。その為かいろいろな人が訪ねて来るようになった。

 龍村さんの展示会の計画も着々と進んでいた。龍村さんは作品の数を揃えるため毎晩徹夜をしているようで、普段でも痩せた細い顔を更に精悍にしていた。展示場の一角を白大理石の砂利で枯れ山水を作りたい意向で、僕はその形や材料代等を検討した。

2008年10月23日

イタリア放浪時代<ミラノ 4>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 9:59 AM

 ミラノには観光で来たわけでないが、ミラノ城は近いので訪ねてみた。都市の中心にこのようなお城があるのはいい、堀を廻らした平城だが開放されているせいか皇居とは少しニュアンスが違って、もう少し身近な感じがする。埋められた堀の芝で子供達がサッカーをしていた。久しぶりなのでボールを蹴らしてもらったら、これがなかなか上手いのだ。かなり翻弄されて悔しいので少々むきになったら「ブラボー ジャポネーゼ!」と反対に励まされた。イタリアでは子供から大人まで野球でなくてサッカーなのだ。お城の裏にはかなり広い公園があって、都市の落ち着きを演出している。左にスカラ座をみながらCENTORO(中央)に向かうと、その裏あたりが”ブレラ街”と言って夜ともなれば芸術家達がたむろう場所らしい。当時、日石のキャンペーンガールだった小川ローザも闊歩してるらしい。CENTOROの北のガレリアはさすがに素晴らしく、高級服飾店や有名書店が並ぶガラスの天蓋の街路だ。その奥は高級ブッティック街である。東にはあまり行かなかったが、南が中心街で、銀行やデパート映画館がいっぱいある。お金さえ有ったらこんな楽しい街は無い。

 2~3日後に龍村さんを訪ねた。話をすると龍村さんは京都の有名な”龍村織物”の息子さんだった。もちろん日本文化や建築にも造詣が深く、話も弾み、僕が持って行った木造の軽井沢寮の写真を大変気に入ってもらい、機会があったら知り合いの建築家に話してあげようと言ってくれた。それより、ちょうど良い、あまりバイト料を払えないが9月末からピアチェンサで展覧会をする、その展示を手伝ってくれないかと、言われた。もちろん僕に異存は無く、体を動かせるだけでも嬉しい。喜んで手伝わしてください、と申し出た。

 サンタニエーゼには電話があった。ためしに日本にコレクトコールでかけてみた。懐かしいお袋の声だ「お前は今どこにいるんだ!」とびっくりしていた。高いから用件だけと言うと、すぐ父に代わり、「金は出す。一旦、日本に帰れ!」との一言だった。ペルージアに居る時から手紙でやり取りしていたことだが、僕は日本で1級建築士の試験を学科だけ合格していた。実技は1年間だけ再試の猶予がある。父はそれを無駄にするなと言っているのだ。情けないことに僕も実技はともあれ学科が再び合格する自信が無い。しかし、せっかくミラノで活動はじめたところで、ここでしっかり足場を固めたい所だが、10月の中頃から1ヶ月、一旦日本に帰えり、首尾よく一級建築士を取得して働くのも悪くないと考えた。ちょうど龍村さんの展覧会を手伝えるし、目標にもなる。

  話が決まると行動は早い。日本でのチケット探しをした経験が役にたった。大手の旅行会社はだめで、中小の格安旅行会社を探すことである。当時はインターネットのような便利なものは無く、頼りないイタリア語で身振り手振りで旅行会社を走り廻るしかない。友達の情報では欧日協会でパリから片道14万円位が格安だそうだ。しかし、僕は諦めないで何社も 廻り、不思議な限定のツアーを見つけた。TEA(トランスヨーロピアンエアライン)の香港往復ツアーである。週に1便だけ往復する便のようだ。交渉すると日本までの往復限定便なら格安の34万リラ(約17万円)で、出発はブルッセルだと言う。航空事情は良くわからなくて、多少の不安はあったがもう迷う事は無く、何とか一時帰国の切符は確保した。

 

2008年10月17日

イタリア放浪時代<ミラノ 3>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 10:38 AM

 何とか夢中でミラノに取り付くことは出来た。しかし、これから何をすればよいんだろう。見知らぬ居間でぽつんと待たされ、再び自分の生活環境を作っていかねばならない不安はペルージアと比べ物にならない。あそこでは学生であり、ここでは始めから異国の大都会に放り出された社会人である。泣き言は自分が惨めになるだけだ。などと考え2時間ほどボケーとしていたら、最初にドアを開けてくれた髪ボサ頭の彼が起きてきた。「おはよう。」と言ってコーヒーメーカーを二つに割って火にかけた。もう3時は過ぎている。絵を書いていると言ったが名前は思い出せない。「郷田さんと話したんだろ。今日からここに泊まるのか?後1持間もしたらあいつら起きてくる。そしたらベットに案内してあげよう。」と言った。何故こんな時間なんですか?と聞くと彼らはレストランに勤め、明け方に戻って夕方に出勤だ。ほとんど寝るためだけに帰ってくる。どうもこの共同生活には横の関係と言うものはあまり無いらしい。

 しばらくして、二人の若者が、ごそごそ起きてきた。顔を洗って、簡単に身支度だけして、「こんにちわ!」と言って出て行ってしまった。本当に寝に帰るだけで僕のことなど目に入らなかったようだ。彼らが起きたので奥の部屋に案内された。トンネルのような通路は階段の廻りを回っているようだ、進むと15帖ほどの大きな部屋があった。そこにベッドが4~5台並んでいる。一番窓側が1台空いていた。荷物はさし当たってベッドの横に置けばよい。これでなんとか寝床は確保できた。二つの窓には鎧戸がついていたが、久しく明けられた様子は無い。奥にもう1部屋ありそうだが、そこが郷田氏の部屋らしい。

 いずれにしても何ヶ月も掃除なんかした様子が無い。贅沢言っても仕方が無いが、その辺から始めよう。と考えていると、「こんちわ!」とえらく元気な声の若者が訪ねてきた。白のTシャツに茶色の革のジャケットで胸に銀の板のペンダントをぶら下げていた。夕食材料と思われる食材を持ち、部屋に入る時も軽いステップを踏んでいそうなイタリア人よりイタリア的な男だ。聞くと週2回お風呂に入らせてもらう代りに食事の用意をする契約らしい。自己紹介すると、「下柳勤です。よろしく。」と言った。彼はインテリアと家具の勉強に来ているらしく、世界的な女流建築家のチニ・ボエリさんの所でアルバイトしている。高校を出てすぐに三越建装部に勤めたが、すぐにイタリヤに来たらしい。いわばイタリアで1から勉強をするつもりで来ている若者である。大変な勇気である。そんなツトムちゃんがこのサンタニエーゼが勉強のできる環境で無い、と見切って別の場所に移った後釜に、僕が入ったらしい。

 まもなく郷田さんも戻ってきた。ツトムちゃんの作ったスパゲッティーとワインで5人のささやかな歓迎会だ。郷田さんはミラノで5年目ぐらいで、そろそろ飽きたな一旦帰ろうかなと言っていたが、ツトムちゃんは2年目で今が1番楽しそうだ。僕が手がけた設計と竹中工務店での軽井沢寮の写真などを見せながらどのようにしたら仕事にありつけるかを聞いてみた。

 さすがに郷田さんは事情に明るくいろいろと解っており、今は不景気でイタリアでは新しい建築は郊外ぐらいしか無いよ。伝統的なことだが、市内では古い建物を改装して使っているみたいだ。またツトムちゃんの話でもチニ事務所でさえ建築はほとんど無くて、家具やクラフトのデザインが中心だと言っていた。この状況で建築設計の仕事を探すのはかなり難しいことのようだ。それでも郷田さんはここの4階に住む龍村さんに紹介しようと言ってくれた。龍村さんは長年ミラノに在住の絵描きさんで、奥さんが、領事館に勤めていると言った。僕としてはどんな小さな糸口でもこじ開けねばならない立場にある。

 

2008年10月9日

イタリア放浪時代<ミラノ  2>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 9:18 AM

 寝不足のまま朝早いミラノのテルミナ(終着駅)に着いた。どんより曇った空がこれからの生活を暗示しているようだ。さすがにミラノは大都会で、朝早くから忙しく大きなバックを運ぶ若者に目を留める人は無い。駅の化粧室で顔を洗い、まずは落ち着くためにコーヒーとサンドを頼んだ。

 こんなに朝早く郷田さんを訪ねるわけに行かない。しかし、重い荷物を持ってあちこちぶらつくわけにも行かず途方にくれた。地図を広げるとサンタニエーゼ(郷田さんのアパート)はミラノ城の近くだ。中心のドーモからも歩いて行けそうである。当時のミラノは街中を縦横に市電が走り、まだまだ主要交通であった。街がラッシュを迎える前にと思いCENTORO(中心)と書てある市電に飛び乗った。雑誌で紹介された高層ビルも見えるし、古い街並も通る。さすがに大都会でペルージアとは違う興奮を覚えた。

 ドーモ(ミラノ大聖堂)の前がCENTOROで、巨大なドーモは修復のための全面に仮囲いが架けてあった。時間潰しにバッグを引きずりながらドーモに入った。仮囲いが無かったらもう少し明るいのだろう。さすがにゴシック建築の最高峰である。その荘大なカテドラルはこの国の底力を見せつけ、圧倒される気分と疲れでしばらくバッグに腰をおろし呆然と見上げていた。ドーモの北側にはあの有名なガレリア(ガラス天蓋の回廊)がある。西にはスカラ座があり、少し離れてミラノ城がある。この街の骨格が朧ながら見え始めると、不安な気持ちが少しづつ晴れてゆく気がする。

 サンタニエーゼ通りはミラノ城の南にあり、近くにサンタンブロージュ教会がある。重いバッグを引きずりながら探すと、小学校の入り口の先を斜めに入るとそこがサンタニエーゼ通りだった。城壁のような古い建物の壁の真中にレストランの旗とアーチの入り口があった。サンタニエーゼ 17 と書いてある。ここだ!入って左側の薄暗い石の階段を登った。日本式では4階である。薄暗い階段室でノッカーを叩いて「ボンジョルノー」と大声で叫んでみた。何の返答も無い。しばらくして、もう一度叩いて叫んだ。反応が無いので引き上げようとした時、突然ドアが開き、パジャマ姿で頭が寝癖でぐちゃぐちゃの若者が目をこすりながらヌーと顔を出し、「誰だ、お前。」と言った。「郷田さん居ますか?」と訪ねたら「まだ寝てる。」と言って入るように合図した。「待ってな、そのうち起きるよ。」と言って部屋の隅の暗いトンネルのような通路の奥に消え、ぽつんと待たされた。もう10時はとっくに過ぎているのだ。この部屋は中庭に面して、明るく、小さいがバルコニーも付いているようだ。しかし、白ペンキがタバコのヤニで茶色に染まった部屋は冷蔵庫とテーブルだけでいかにも殺風景なダイニングキッチンで、あたりには長年の男所帯特有の空気で澱んでいた。

 1時間ほど待つとパジャマ姿の郷田さんが奥から現れた。寝ぼけているのか目を擦りながら「オー来たか。」とあまり歓迎する様子では無く捨てるように言って、八角形のエスプレッソのコーヒーメーカーを二つに割ってセットし、火にかけた。何も言わずそのまま奥に消え、顔を洗って再び現れ、コーヒーを入れながら奥を指し「あいつらはレストランで働いているから夕方出勤で、それまで寝ているのだ。」と言った。まだ奥で何人か寝ているようだ。「ちょうどベッド一つ空いているから月1万5千リラでいいや。寝るだけでだぞ。後の経費はその都度皆で等分だ。」と人は悪くないが、なんでもぶっきら棒である。「そうだ、昨日のスパゲッティがあるから暖めろよ。」と言はれ、レンジの上の深鍋を覗くと赤いスパゲッティらしいものが1.5人前ほど入っていた。軽く暖めて、二つに割って食べるとトマト風味で延びきっていたが、味は悪くない。それを平らげると彼は服を着替えに戻り、「用事で出かけるけど夕方戻る。鍵を渡すから留守番してて!」と詳しいことを何も告げずにスタスタと出て行ってしまった。不安も大きいが、何とかミラノに取り付いた事にほっとした。

 

2008年10月2日

イタリア放浪時代<ミラノ 1>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 3:40 PM

 朝早く起き、一番のバスで駅に向かった。切り替えると早いのが僕の特徴である。一刻も早く楽しみなフィレンツエに到着し、ゆっくり廻って夜行でミラノに行こうと考えた。これが宿泊代を省き、安く楽しく旅をする方法である。

 やはり、フィレンツエはイタリア最大の観光地である。まだ夏休みで駅から人が溢れている。この街のすべてを見ることはすぐに諦めた。サンタマリアデルフィオーレ(花の聖マリア大聖堂)とミケランジェロ作のダビデ像とポンテベッキオ、そして最後にアルノ河の対岸の丘と思われるミケランジェロ広場に登るだけにしようと考えたら急に楽になった。くねる道の隙間からのぞくサンタマリアデルフィオーレの迫力に当時の世界の富を集めた貴族と芸術家達の夢の都の実現への情熱が街の隅々から伝わる。そして広場に出てその全容を見上げた時はその壮大さに、感激と言うよりペーブされた白い大理石がその重量で沈み込む不思議な幻覚を覚え不安になった。午前中は逆光で見難いからか、ロダンの地獄の門のモデルとなった天国の門は思いのほか普通の門であった。さすがに大聖堂は壮大で、塔に上る階段は有ったが、混んでいることも有って、とても上る勇気がなかった。

 やはりベッキオ宮の前は人がいっぱいで、ビーナス誕生は見たかったが、ウフィツオ美術館にはとてもは入れそうも無い。ほかの広場のバルでパニーニ(生ハムを挟んだ小さいフランスパン)とコーヒーで昼にした。パンフレットを調べるとダビデ像の本物はアカデミア美術館に有ると書いてある。地図で見ると西の奥で、これを見て裏街をぐるっと廻ってアルノ河に出てポンテベッキオを渡ろう。アカデミア美術館はミケランジェロの小品がいくつかとダビデ像があるだけなのにかなりの入場料を取られた。憧れのダビデ像の大きさとギリシャっぽい姿はすばらしかったが、混雑の中で今一つ感動につながらなかった。気分を変えて、大好きな裏道をゆっくり訪ね歩いた。どこをどう歩いたのか分からないが、ポンテベッキオの1本南の橋の袂に出た。あれがポンテベッキオか!橋全体が建物になっている。左のベッキオ宮と対岸のピッテイ宮まで秘密の通路がつながっていると聞く。この街全体が迷宮なのかもしれない。この橋を渡って対岸に出た。僕はただその名前に惹かれてミケランジェロ広場に向かって登った。

 広場の高台に到着するともう日は傾いて、夏時間だから7時過ぎになるかもしれない。大聖堂のドームを中心に街中のレンガ色の屋根が赤く染まり、ポンテベッキオを手前に何本もの橋が架かるアルノ河が前から右に迂回してこの街を貫ぬき、夕陽に向かってゆったりと蛇行する姿はとても偶然出合った景色とは思えない。

 感激をもて余しながら街に向かった。しかし、この頃の僕は大都会に出て生活をしなくてはならない意気込みと不安で、ちょっと豪勢に行きたい気分を打ち消し、街外れのパスタ専門店で一番安いピッザのマリゲリータとワインを頼んだ。ヤホー!このピザこそ先程の夕焼け色だ!なんてはしゃいだ気分で街をぶらつき、駅に預けたバックを受け取り、ミラノ行きの夜行列車に乗った。しかし、列車に揺られると、さすがに打ち消していた不安が頭をもたげ始めた。ミラノで何をすれば良いのだろう。言葉も不自由な上、金も当ても無い、手ぶらで大都会に放り出されるのだ・・・・

 

 

HTML convert time: 1.549 sec. Copyright ©2007 ikenogumi.inc