2009年1月28日

イタリア放浪時代<一時帰国 8>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 2:14 PM

 すっきりはしなかったが、自分としては一応の決着をつけたつもりだった。1日空けてあわただしい出発になった。安いチッケットなので朝早い。どうやって羽田に行くか算段をしていたら珍しく父が「俺が送って行く!」と言ってくれた。有難いことに父は無口な人である。朝焼けの高速を羽田に向かった。Nさんの事を考えると自然に目頭が熱くなる。涙眼の僕に何か有った事は父も感じているはずである。しかし、余計な事を言わず空港の玄関でバックを下ろし「気をつけて行って来い。」とだけ言って帰って行った。親父の大きさと温かさが身に沁みた。

 帰りの飛行機も香港までは同じマレーシア航空であった。便が早いので空席が目立ったが離陸したとたん堪えていた涙腺が切れた。ひょっとすると彼女との事は僕の一人芝居であり、解決を焦りすぎたかもしれない。しかし、この人だけには解ってほしかった気持ちの空洞はいかんともしがたく糸の切れた凧のような迷走の旅になる恐怖におののいた。

 香港で東京のお礼にご馳走してくれる約束をしたデンテさんのホテルに向かった。ホテルは雑誌で取り上げられた事のある超高層の近代ホテルだった。部屋に尋ねると見晴らしの素晴らしいツインルームだ。宿はどうしたと聞かれ「苦学生はこんな高いホテルには泊まれない、安い宿を探します。」と答えると、それなら「ここに泊まれ。」とベットとマットを分解して寝床を確保してくれた。実にシンパティコ(感じの良い)な奴らだ。僕の身軽な姿を見て「君の荷物はそれだけ? お願いがあるんだが、飛行機に乗る時1人分の荷物の量が決められているので一緒の荷物として運んでほしい。」と頼まれた。彼らは玩具の商社マンで日本でサンプルを集め、加工賃の安い香港で作らせヨーロッパで売る仕事をしているようで、沢山のサンプルを持っていた。ちょっとせこいようだがこのようにして国際ビジネスが成り立ち、その手伝いができる気分で嬉しくなった。

 食事は彼らの取引先に連れられ老舗風の高級薬膳レストランの個室に案内され、それは仰天の晩餐会であった。出てくる料理は美しく飾られているが、何の肉か説明されても良く分からない。海老や蟹では無い甲殻類が出た。明らかに蛇の輪切りのような料理も出た。嘘だろう!ついに猿か羊の脳らしき白子の塊も出た。心を決めて強い酒で飲み込むようにして味わうしかない・・・・

 翌日飛行場に運び込んだ彼らのバックの数はすざましい、サンプルは重くは無いのだが嵩張るのである。機内にも自分のバックの他に1つ持たされ、足の下に置く事になったが、これが長時間では相当にきつかった。TEA航空は1機しか無いのか、来た時と同じ飛行機のようで、驚いた事にスチュアデスさん達も1ヶ月前に来た時とほとんど同じメンバーである。不安もあったが、親近感も感じた。さすがにプノンペンの場外サービスは無かったが、同じコースを辿ってブルッセルに向かった。荷物と一緒に持ち込んでしまった彼女への深い悔恨の気持ちもヨーロッパに近づくにつれ少しづつ吹っ切れ、変わってがんばらなくてはと言い聞かせる自分を感じた。 

 ブルッセルに着く頃は、「よしゃ! 頑張るぞ!」と叫びたい気分で、もう無駄なお金は使えない。一刻も早くミラノに行こう!と夜行列車を乗り継いだ。

2009年1月21日

イタリア放浪時代<一時帰国 7>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 3:47 PM

 TEAツアーは香港までのようで、日本へは別チケットの民族衣装でサービスのマレーシア航空だった。羽田(国際線は羽田空港だった)に着いたた時はもう疲れてかなり虚脱状態であった。昨日のホテル代が高くて所持金はほとんどない。ラッシュアワーも過ぎた頃であったので、当時の僕の旅行帰りの定番である東京駅の地下にあった東京温泉に向かった。確か2~300円でサウナ付きの銭湯に入れる。ゆっくり汗を流しビールを飲むとすっきりしたが、空腹でよれよれになって家にたどり着いた。2~3日の休養のあと、早速、1級建築士の受験の準備を始めた。焦らなければ今度は大丈夫だろう。

 Nさんに会いたくて連絡すると、なにより無事を喜んでくれ、いろいろ話したいので一刻も早く会いたいと伝えた。しかし、久しぶりのデートなのに照れ屋の僕は、あれほど懸命に選んだはずのバックを綺麗な包装紙にも包まず、特に演出も考えず、なんとなく渡したら「ありがとう!」で終ってしまった。それでも僕は夢中で旅の事を話した。始めは楽しそうに聞いていたはずだが、彼女の聞き方が少しずつ変わるのに気がつかなかった。そのうち彼女は「ゴット・ファーザー」のアルパチーノとシチリアの話に変えた。だが、僕はまだその映画を見ていない。僕のイタリアの話がつまらなかったのか?

 何となく釈然としない気持ちで家に戻り、ひょっとしてこんな形でイタリアに行った事を彼女は快く思っていないのかも知れない、と考えた時、愕然とした。それなら僕が楽しそうにイタリアの話をすればするほど気分が滅入るのも理解できる。たぶん彼女は二人の楽しい事を話したいのだろう。だが今の僕は目の前のイタリアがすべてで、自分の考えている事が彼女の楽しみでもあると勝手に思い込んでしまった。僕のイタリアへの憧れが彼女にとって興味が無い事なら、僕のわがままを押し付けているだけでないか? 

 僕たちの婚約はイタリアに出発前のどたばたした状況で決めた事だった。もちろん僕は彼女を素敵だと思ったし、二人だったらどんな困難でも上手くやってゆける自信は有った。そして何よりお袋のお気に入りであり、イタリア行きを反対している口封じの意味が無かったとは言い切れない。意識はして無かったが、婚約は何よりも出発する不安を蹴散らし、決断のパワーをもらったような気もする。 もちろん彼女は僕がイタリアに行くために頑張って働いていた事は充分に知っていたはずだし、行くまでの協力を考えると、それに反対していたとは思えない。だが考えるとこの婚約は僕のイタリア行きのために踏み台にしただけでないだろうか?

 不安は的中していたようで、焦った気持ちで関係の修復に努めたが、なかなか上手くいかない。そんな折、プノンペンで友人になったデンテさん達との約束の日が近づいた。「僕のイタリア行き」を知ってもらいたい気持ちで彼女を誘った。高輪プリンスに迎えに行って、ちょっと奮発して「ハ方園」の森の中のステーキ屋さんに案内した。そして彼らに僕のフィアンセであると紹介した。料理は美味いしく雰囲気は申し分ない、楽しい夜になるはずだった。しかし、そこで交わされた会話はもちろん全部イタリア語であり、しかも通訳が未熟で、細かいニュアンスまで彼女に話してあげることが出来ない。結局3人だけで盛り上がり、彼女を孤立させ、少しさびしい思いをさせてしまったようだ。彼らと別れ、そのままホテルにでも誘ってしまえばよかったのにと乱暴な事も考えたが、心の溝は思いのほか深く、家まで送ってキスで別れるのが精一杯だった。

 複雑な気持ちで試験に臨んだが、今度は首尾よくクリアーした感じがした。結果は年末であり、早々イタリアに戻らなければならないが、彼女の事だけははっきりさせなければならないと焦った。イタリア行きに反対しているわけでないと言うが、僕が生涯をかけてと思う事が彼女にとって興味が無いままでは心をつなぐことは出来ない。今度イタリアに発ったら何時帰るかも分からない、中途半端に彼女を待たすわけにいかない。僕のイタリア行きを興味を持って見守ってくれない限り、僕のわがままをただ押し付ける事になるだろう。いろいろと相談し、婚約の解消を彼女の家族に説明する事にした。

 辛い話だがきちんと説明はしなければならない。お母さんとお兄さんの前での説明は辛かった。「別の女性が出来たわけでない。彼女を嫌いになったわけでない。ただ何時帰るか分からないのに彼女を縛り付けるわけにゆかない・・・」 すき焼きが振舞われたが、涙と一緒に飲み込んだ。殺して飲んだ酒が妙に回りが速くしばらくして急に具合が悪くなり、片隅でヘドを吐く姿が最後に見せた醜態である。駅で泣きながら見送る彼女を抱きしめながら「君は素敵だし、何も悪くない・・・」と言うのが精一杯だった。

 

 

 

 

2009年1月14日

イタリア放浪時代<一時帰国 6>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 3:00 PM

 日本までの切符にはブルッセル空港9時と書いてあった。宿に頼んで6時前に出た。霧の流れるまだ暗い街角でトラムを拾い、電車を乗り継いで空港に着いた。出発ロビーでTEAとカンボジア航空のカウンターを探したがいずれも無い。案内に訪ねるとチケットを裏返したりして調べ、これは航空チケットでない交換しなければならないのでロビーで待ちなさいと言われたが、何を待てば良いのか理解が出来ず、詐欺にあったかも知れないとたまらない不安に襲われた。9時頃になって同じチケットを持つ夫婦が、やはり同じ様に不安そうな顔をして現れた。「エクスキューズミー」と尋ねたら「ケコーザ?」と答が返ってきた。イタリア人だ!チケットを見せてもらうと時間が10時で、1時間ずれている。不安は変わらないがなぜかちょっとホッとした。10、11時と時間が進むと同じような人がどんどん現れ、12時を回る頃には2~30人になり、しかもそれぞれの切符の時間はバラバラだ!1時を過ぎてしばらくするとロビーの中央で手品師が使うような折りたたみのテーブルを開いてカンボジア空港の看板が立った。なんとこれがチケット交換所だ。とりあえず安心したが、いろいろの手続きで飛行機がブルッセルを発ったのは3時を回っていた。

 TEAの飛行機は120人乗りで国際線にしては小型であり、かなり使い古しているようだ。当時の安い飛行機は雨が降ると噂されたが、エアコンの吹き出し口からしずくが落ちる、タオルをもらって防御しなければならない。スチュアデスさんは若いわけではないが全員グラマーで鍛えられた腿の筋肉を強調した超ミニスカートの煽情的なユニホームで、かなりユニークな航空会社である。テヘラン、真夜中のボンベイ(現在のムンバイ)と経由してカンボジアのプノンペンに昼前に降り立った。インドシナ半島全体にきな臭い噂はあったがベトナムを除くとまだ平和であった。「ここで4時間ほど休憩します。本機はバンッコクを往復し、再び皆さんを乗せて香港に向かいます。皆さんは一旦空港を出て市内のホテルにて昼食をして戻ります。」と案内があり、喜んだ。だが降りた空港の窓から信じられない光景を見た。乗ってきた飛行機先頭のTEAのマークに大きな脚立に人が乗りこれを剥がすと、なんと下からカンボジア航空のマークが現れた。薄い鉄板をガムテープで張ってあるだけなのだ。

 上から見た時は一面海のように見えたプノンペンは見渡す限りの田んぼと運河であった。うだるような暑さの中をあまり冷房の効かないバスで水溜りをよけながらホテルに向かった。隣り合わせたデンテさん達はイタリアの商社マンで帰りも同じ飛行機だと分かり友達になった。案内されたホテルは廻りとは別世界で、オランダ統制時代の優雅な建築であった。プールの辺でカレー風味の食事をしながら、デンテさん達を1晩東京を案内する約束したりして、のどかな時を過ごした。しかし、1年もたたずしてベトナムの戦線が拡大し長らく戦場になるとは、この時はとても想像出来なかった。

 香港は嵐だった。当時の香港空港は山間と街の中を抜けて降りる、世界で一番難しい空港と聞いていた。嵐の中を迂回して街中に突入する時はさすがに生きた心地がしなかったが、なんとか無事着陸した。安宿を見つけに街に出るつもりだったが、嵐が止みそうに無い。仕方ないのでホテルにするかと諦めて案内所に向かうと、さすがに並んでいる。すぐ後ろのインド人の商社マン風の紳士と僕はマンダリンホテルに割り振られ一緒のタクシーで行く事になった。タクシーの中で「日本人か?」と聞かれ、うなずくと「それは嬉しい。僕は今日、日本の三菱とビックビジネスを結んだ。今夜、君を招待しよう!」と握手してきた。

 8時にロビーで待ち合わせ、雨も止んでいたので歩いて街に繰り出した。1軒目はクラブ風バーでママさんと女性が付いた。席に着いたとたん女性が僕に中国語で話し掛けてきてびっくりしたが、彼女の故郷では僕のような顔が多いらしく、中国人だと疑わなかったらしい。それがきっかけで意気投合したのが、インド人の彼はちょっと面白くなかったようで、「次に行く!君はどうするかね?」と席を立ったので、もちろんお金が無いので従った。次に案内された店が不思議な店で、入り口は一つだが、中にいくつものカウンターバーがある。丸いテーブルの上でにネグりジュエ姿のお姉さんが座りながらサービスするバーやウエスタン風やハワイ風など民族調のカウンターがあり、商社マン専門の情報交換所のようなバーが集まって一つの大きいバーになっている店だ。それらを順次飲み歩き、しかし彼の目的は商社マンカウンターだったようで、しばらくいろいろの国の人と情報交換してそこを切り上げた。もう1時頃にはなっていたと思うが、彼はもう1軒行くと言うので別れた。

 飲みすぎてふらついていたが、さてホテルはどっちだったろう?大きなホテルだったが名前は?たしかMで始まるのくだものような名前だったが・・・覚えていない。完全に迷ってしまった。方向を定めて歩くが、地図も持たず名前も分からず簡単には見つかるはずがない。深夜の街をわずかな記憶をたよりに探し廻り、疲れて途方に暮れてしまった時、道路の反対側にたしかタクシーで入った時に覚えのある入り口の風景を見つけた。そうだ、あのマーク!思い出したマンダリンホテルだ!

 

 

2009年1月7日

イタリア放浪時代<一時帰国 5>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 9:17 AM

 翌朝、気持を新たにパリを発つと、昼過ぎにはブルッセルに着いた。お腹がすいて街に出るとアメリカンスタイルのダイナッミックに骨ごとカットしたステーキ専門店を見つけた。イタリアではなぜかビテッロ(子牛)ばかり食べていたので、ワイルドで美味しそうで、しかもファミリー風で気取りが無いのが嬉しかった。Sサイズを頼んだのに厚くてとても大きく、ビールはちょっと薄味だがかなり美味い。良く見ると、どうみても小学生か中学生のような子供がビールを飲みながら食べている。この国では未成年でも許されるのか。

 ブルッセルの中心はなんと言ってもグラン・プラスで市庁舎を前にした美しい広場はギルド時代を偲ばせる。安宿を求めてダウンタウンらしき方角に向かうと昼間からネオンが点灯する一角を見つけた。カーテンの閉まっている店も多いが、ウィンドゥーの中のお姉さんが高椅子に寄りかかるよう腰掛けている。眼が合うとスーと薄いガウンをずらし、真っ白な内腿が目に焼き付いて離れない。自然にドアに吸い込まれそうになる。これがあの有名な飾り窓なのか・・・。昼間から何を考えているのだと頭を叩いて立ち去った。

 ダウンタウンに宿を決め再びグラン・プラスに戻り、コーヒーを飲んでいるとアジア風のお姉さんに「日本の方?」と声を掛けられた。うなずくと「座っていい?あと少しでフライトなの。」背はあまり高くは無いがスチュアデスのお姉さんのようだ。僕を安全パイと見たようで、こんなテラスで一人お茶なんか飲むと不良外人たちが煩いらしい。これまでの旅の事を話すと喜んで、せっかくここまで来たのなら、ブルージュに行きなさい!時間があったら案内したいくらいだと言った。あっという間に時が過ぎ、食事を誘ったが 「ありがとう!でも本当にフライトなの、ごめんね。」と言って手を振って去っていった。

 ブルージュは地図で確認すると海に近い100kmぐらい西の街で、翌日さっそく向かった。駅に降りると、辺りは深い霧で真っ白だ。不安な気持ちで歩き始めると、ギルド時代に栄えた面影が見え隠れする美しい石造りの街並みが現れた。とんがり帽子の家は北欧特有の大きな窓を開け、街中に掘られた運河には美しい橋が架かり小経や小さな広場は掃き清められ綺麗な店が点在している。霧がスライド映画のように次々と新しい景色が現す。この街に来て本当に良かったと彼女に感謝した。しかし、街の全体像の見えない景色はある種の欲求不満も残り、もう一度来る事が出来たらと強く望みながらこの街を去った。

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