イタリア放浪時代<突然の帰国 3>
翌日、田園風景の中をバスでグエル卿の織物ファクトリーへ向かった。そこは小高い丘にきっちり計画されたレンガ造の小さな村であった。村の中心に集積倉庫兼バス停の大きな建物があり、この周りがロータリィーであった。その北側にバルセロナの石工さんのお勧めのガウディーの設計した地下教会があった。地下教会といっても半地下で屋根は小高い丘になっていて、たぶんこの上に本堂の天蓋を載せる壮大な計画だったのであろう。斜めの土木的な柱の中に造られた教会で、これが不思議な想像力を描きたてる。
掃き清められた村は西側に工場棟が配列されている。(現在も稼動しているのかは定かでない。)南側は100mほどの3本の道に沿ってレンガ造りのアパートメントが建ち並ぶが、それらはどれも違うデザインで積まれている。これらはガウディー先生のお弟子さん達が競って設計したらしい。それぞれの家の前は同じ形の小さなガーデンがあり、丹精こめたバラが育てられている。道は緩く南に登り、突き当たりに小さな小学校と集会場がある。デザインされたエントランスで左右に別れ、左側が教室で、その先が大きな草原のグランドである。真っ白な前掛けのような制服を着た子供達が今グランドに飛び出して遊び始めた。これがファクトリーの全体像である。19世紀に造られたとすると、なんとモダンなファクトリーであろう。グエル卿とガウディー先生の夢が今も暮らしの中で生きているのに驚いた。それらを見学してロータリーに戻ると、バスは1日2便しかない。次のバスは夕方の3時で、まだ昼であり、改めてヨーロッパ最後の村の見学をゆっくり堪能した。
翌日、バルセロナから飛行機でパリに向かった。オルリー空港でない西の郊外の飛行場に下ろされた。しかし、そこでは航空ショウーが開かれていて双翼のアクロバットや編隊飛行のショウーが見物できた。コンコルドではないが、同じようなソ連製の巨大な三角翼の旅客機も展示されていた。僕はそのままパリ経由でオルリー空港に向かい、夕方の欧日協会の貸切のJALの飛行機に乗った。大型機だが満席で、最後のチケットを買ったらしく、最後部の窓の無い席が与えられた。乗客はほとんど日本人で、こんなにもヨーロッパで活躍している人がたくさん居るのかと圧倒された。
機内食が終ると眠るしかない。寝付かれずに、長かった旅の反省をする事になる。精一杯生きた事に後悔は無い。ただ、今でも悔しく思うのは、やっと探し当てた学ぶべき道が直ぐそこにあったのに引き返さねばならなかった事だ。帰国して何年かすると、あのベローナのカステロ・ベッキオを設計したベネチアの先生は世界的に有名になり、カルロ・スカルパ先生だと判明した時は驚いた。先生は日本が大好きで、たしかその後、仙台で客死されているのである。もし、あのままイタリアに残り、先生を訪ね教えを乞う事になっていたら、と考えると今でも複雑な気持ちになる。しかし、当時の僕はヤスコ嬢がどんなに心細い気持ちでいるかと思う気持ちだけで一杯であり、どうなるか分らないが、とにかく早く帰れねばならない! などと考えながらまどろんだ。気がつくとアンカレジ(アラスカ)だった。当時はソ連の上空を通過出来ず、北回りはアラスカを経由しなければならなかった。
給油を終えて再び飛び立つともう眠ることは出来なかった。受け取った新聞を見て驚いた。昨日見た航空ショーのソ連製のコンコルドが墜落していた。すこしの違いで、世界的な事件に遭遇したかもしれないのである。そんな事を考えながら日本に近づくと、急に自分の事で今までに感じたことの無いような不安に襲われた。僕は日本に戻って、何から始めればよいのだろうか? いろいろの人に迷惑をかけ、自分のすべてを投げ捨てて始めた旅である。それなりに覚悟して決めたはずだ。しかし、今、その代償であるはずだった成果は何も無い。旅の終わりになんと言う事だ! どんどん膨らむ不安で押しつぶされそうになる・・・。
そんなボロボロの気持ちで羽田に着いてしまった。到着ロビーに大勢の人波に混じって真白いスーツの涙眼の彼女の姿が飛び込んだ。重いバックを引きずって近寄りるともう彼女の体は力が抜けそうだった。僕より、彼女の方が一杯だったのだ。抱き止める腕からじんわり幸せが伝わり、さっきまでの不安な気分は吹っ飛んだ。同時にこの人のために頑張らねばならないという新しい力が沸き起こる。 旅はすべて終った・・・! (完)