2009年5月26日

イタリア放浪時代<突然の帰国 3>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 2:39 PM

 翌日、田園風景の中をバスでグエル卿の織物ファクトリーへ向かった。そこは小高い丘にきっちり計画されたレンガ造の小さな村であった。村の中心に集積倉庫兼バス停の大きな建物があり、この周りがロータリィーであった。その北側にバルセロナの石工さんのお勧めのガウディーの設計した地下教会があった。地下教会といっても半地下で屋根は小高い丘になっていて、たぶんこの上に本堂の天蓋を載せる壮大な計画だったのであろう。斜めの土木的な柱の中に造られた教会で、これが不思議な想像力を描きたてる。

 掃き清められた村は西側に工場棟が配列されている。(現在も稼動しているのかは定かでない。)南側は100mほどの3本の道に沿ってレンガ造りのアパートメントが建ち並ぶが、それらはどれも違うデザインで積まれている。これらはガウディー先生のお弟子さん達が競って設計したらしい。それぞれの家の前は同じ形の小さなガーデンがあり、丹精こめたバラが育てられている。道は緩く南に登り、突き当たりに小さな小学校と集会場がある。デザインされたエントランスで左右に別れ、左側が教室で、その先が大きな草原のグランドである。真っ白な前掛けのような制服を着た子供達が今グランドに飛び出して遊び始めた。これがファクトリーの全体像である。19世紀に造られたとすると、なんとモダンなファクトリーであろう。グエル卿とガウディー先生の夢が今も暮らしの中で生きているのに驚いた。それらを見学してロータリーに戻ると、バスは1日2便しかない。次のバスは夕方の3時で、まだ昼であり、改めてヨーロッパ最後の村の見学をゆっくり堪能した。

 翌日、バルセロナから飛行機でパリに向かった。オルリー空港でない西の郊外の飛行場に下ろされた。しかし、そこでは航空ショウーが開かれていて双翼のアクロバットや編隊飛行のショウーが見物できた。コンコルドではないが、同じようなソ連製の巨大な三角翼の旅客機も展示されていた。僕はそのままパリ経由でオルリー空港に向かい、夕方の欧日協会の貸切のJALの飛行機に乗った。大型機だが満席で、最後のチケットを買ったらしく、最後部の窓の無い席が与えられた。乗客はほとんど日本人で、こんなにもヨーロッパで活躍している人がたくさん居るのかと圧倒された。

 機内食が終ると眠るしかない。寝付かれずに、長かった旅の反省をする事になる。精一杯生きた事に後悔は無い。ただ、今でも悔しく思うのは、やっと探し当てた学ぶべき道が直ぐそこにあったのに引き返さねばならなかった事だ。帰国して何年かすると、あのベローナのカステロ・ベッキオを設計したベネチアの先生は世界的に有名になり、カルロ・スカルパ先生だと判明した時は驚いた。先生は日本が大好きで、たしかその後、仙台で客死されているのである。もし、あのままイタリアに残り、先生を訪ね教えを乞う事になっていたら、と考えると今でも複雑な気持ちになる。しかし、当時の僕はヤスコ嬢がどんなに心細い気持ちでいるかと思う気持ちだけで一杯であり、どうなるか分らないが、とにかく早く帰れねばならない! などと考えながらまどろんだ。気がつくとアンカレジ(アラスカ)だった。当時はソ連の上空を通過出来ず、北回りはアラスカを経由しなければならなかった。

 給油を終えて再び飛び立つともう眠ることは出来なかった。受け取った新聞を見て驚いた。昨日見た航空ショーのソ連製のコンコルドが墜落していた。すこしの違いで、世界的な事件に遭遇したかもしれないのである。そんな事を考えながら日本に近づくと、急に自分の事で今までに感じたことの無いような不安に襲われた。僕は日本に戻って、何から始めればよいのだろうか? いろいろの人に迷惑をかけ、自分のすべてを投げ捨てて始めた旅である。それなりに覚悟して決めたはずだ。しかし、今、その代償であるはずだった成果は何も無い。旅の終わりになんと言う事だ! どんどん膨らむ不安で押しつぶされそうになる・・・。

 そんなボロボロの気持ちで羽田に着いてしまった。到着ロビーに大勢の人波に混じって真白いスーツの涙眼の彼女の姿が飛び込んだ。重いバックを引きずって近寄りるともう彼女の体は力が抜けそうだった。僕より、彼女の方が一杯だったのだ。抱き止める腕からじんわり幸せが伝わり、さっきまでの不安な気分は吹っ飛んだ。同時にこの人のために頑張らねばならないという新しい力が沸き起こる。 旅はすべて終った・・・!          (完)

2009年5月22日

イタリア放浪時代<突然の帰国 2>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 9:41 AM

 朝早いのに、カメラマンの江島さんと料理人のKさんがミラノ駅まで送りに来てくれた。Kさんはいつもサラシに包丁を巻き持ち歩くような純日本風な料理人である。以前に市内で振り回したことのあるらしく仲間からは恐れられていたが、大晦日のポーカー以来なにかと親しくしている。心残りのまま旅発つのは辛く、テルミナ(終着駅)で別れのエスプレッソを飲み干して思わず涙する僕の肩を黙って叩いてくれた。

 列車で真直ぐ南下してジェノバを経由し、海沿いにバルセロナに向かった。結局僕のイタリア行きは何だったのだろう? と1年にわたる旅を振り返っていた。ただひたすらにイタリアに憧れ、横浜を発ち、夢中でペルージアにたどり着いた。そんな感傷に浸り始めた時、ジェノバから4人の小母さんたちが同じコンパートメントに乗り込んできた。出稼ぎか何かの帰りのようで、始めは僕に遠慮している様子だったが、言葉が分らない外国人として、無視して話し始めた。傷心気味の僕としてはそのほうが都合が良かったが、旦那の悪口になった時ついくすっと笑ってしまった。話がわかるのかとびっくりされて、ウンポ(少し)と答えると、今度は僕の話になり、面白い日本人として仲間に入れてもらったようだ。そのうちバックから食料が出始め、ワインも持ち込んであって、すっかり宴会のように盛り上がった。こんな時のイタリアの小母さん達は迫力で明るく大らかである。滅入った気持ちがいっぺんに吹っ飛んだ。

 国境を越えるとまもなくモンテカルロ、モナコがあってニースがあり、カンヌ、サントロペと続くあのフランス映画で何度も舞台になったコートダジュールが始まる。その明るい響きに思わず下車したくなってニースで降りた。それは素晴らしいビーチで、ここらの人達は皆モデルばかりかと見惑うほどの素敵な男女だけが目を引き、ハーバーには高級なヨットが溢れ、豊かさのレールに乗った人だけの天国のようだった。しかし、素晴らしい街ではあったが、金も無く、ましては容姿と言葉に自信の無い僕が楽しめる海でなかった。ちょっと悔しかったけど、ニースからそのまま得意の夜行列車に乗ってバルセロナに向かった。

 バルセロナに近づくと高層住宅などのビルの開発が物凄い勢いで進み勢いが感じられるが、まだ当時のスペインはフランコ将軍の独裁の時代で何処となく重い影も感じた。ホテルに荷物を下ろし、迷わずサクラダファミリアに向かった。当時はまだ4本のトウモロコシのような塔しかなかったが、その異様な造形に圧倒された。塔はかなり先端まで登れて、高所恐怖気味の僕としてはかなり恐ろしかったのだが、力の流れが美しい爬虫類的造形と不思議なディテールは僕の想像力をはるかに超えていた。感動に打ちのめされて降りると、これから百年以上も工事を進めるための工房兼現場事務所兼博物館があった。

 不思議な事に工房の奥で石を削っている若い男の姿はどう見ても日本人だ。近づいて「もし!」と声をかけたら手を休めてこちらを見た。「日本人ですか?」と聞くと、頷いたので、「どうしてここで石を削っているのですか?」 と尋ねると、もう2年も前からここで働かしてもらっているとの返事だった。それは素晴らしいと感激して自己紹介をした。僕もどこかであなたのように、その国の文化に入り込みたいと思ったが、事情で帰国しなければならない、あなたは羨ましいほどに立派な仕事をしている、頑張ってください。とエールを送った。そして他のガウディーの作品を見たいので、何処が良いのかを教えてもらった。市内の作品はもちろんだが、20kmぐらい北西のグエリ卿の織物工場のある村とそこの地下教会が最高だと教えてくれた。この青年こそ後にバルセロナの石工として有名になった外尾悦郎さんであったと思うが今では確かめようも無い。もちろん市内のグエル公園とカサ・ミラ(ガウディの設計した公園とアパート)を回った。夜に並木道通りを下ってギターとカスタネットの聞こえる店を覗くと、まさにフラメンコの店だった。伝統的な8人ほどのダンサーが順次踊るフラメンコバーで、目の前の踊り子が砂埃を巻き上げて踊る足の筋肉に圧倒された夜だった。

 

2009年5月18日

イタリア放浪時代<突然の帰国 1>

Filed under: 社長ブログ — boss @ 9:57 AM

 勤めたのは1ヶ月であったが、ここでなんとか仕事をこなしてゆける自信はついた。だが、まだ彼女を迎えて仕事をしながら学ぶ。この問題をクリアーしたわけでない。しかし、人生は1回しかない。共に学べるチャンスは今しか無いだろう。来る日も何とか可能性は無いものかと考えた。繰返すが、僕だけなら目安は付いた。彼女もデザイナーであり、来てしまえば何とかなるだろう。だが、飛び出すにはどうしても、それなりの資金が必要なのである。

 僕はここで血迷って、人生で最も卑劣なことを考えてしまった。安易にも、手紙で何とか両親を泣き落とし、最初だけでも援助をしてもらう事を考えた。そして毎週2度ほど手紙を出して充分に説得し、その後で彼女を家に行かせてお願いする作戦を実行した。両親を泣かせる術は知っているつもりだった。しかし、1ヶ月過ぎても返事がなくて変だなと思ったが、その時はまだ自信は有った。作戦の完了の頃合を見計らって彼女を家に行かせた。しばらくして日本からの電話で、雷のようにわめくお袋の罵声が聞こえた。「すぐに帰れ!帰らなければ勘当だ!」 何で? と思ったが、しばらくしてどうして作戦が失敗したか理解した。

 その頃イタリアでは全国的に郵便が半月以上のストで大混乱していた。ポストが一杯で、郵便物が局で山済みにされ、そのあげく、解除されてから新しい手紙から配達されたようだ。僕が順を追って泣き落としにかけたつもりが、逆に郵送され作戦がバレバレになってしまった。それだけでない、僕は最初の手紙でNさんとの婚約の解消の経緯をしっかり書いたつもりだった。だが、その手紙がお袋に渡ったのは最後になった。その時までお袋の頭の中にはNさんしかなかったようで、そこへ新しい婚約者として彼女を送ってお金の援助の話をさせてしまった。お袋は相当に混乱したようで、その怒りを電話で僕にぶつけてきた。何度か連絡があり、結局電話では埒があかず、「分った!なるべく早く日本に帰る!」と叫ばざるを得なくなった。下手な芝居を打った事で両親ばかりでなく、彼女をも大きく傷つける事になってしまった。後悔しても始まらない、一刻も早く日本に帰って事態を収拾しなければならない。

 こんな事で僕のイタリアでの計画が頓挫するとは夢にも思わなかった。これだと思う確かなものはまだ何も掴んではいない。しかし、とても悔しいが、愛する人たちを傷つけながら、自分だけ都合の良い生き方をする事は出来ない。迷わず帰国の決意を固め、1番早い安売りチケットを探した。結局5月の終わりの欧日協会のパリ発成田行きの便が早そうである。それでもあと2週間以上もある。龍村さんや、ベッロニー先生などにあわただしい帰国の挨拶をして周った。その間にも名残を惜しんでアオスタやベルガモなどバスで廻れる近郊都市だけは観て廻った。しかし最後にどうしてもバルセロナにあるサクラダファミリア教会など(当時はまだ怪奇建築と報道されていた)アントニオ・ガウディの作品だけは見たいと考え、バルセロナ経由で帰ることにした。

 それにしても、良い事も悪い事もひっくるめてサンタニエーゼを渡してしまう、ツヨシには申し訳ないと思った。彼はいい奴でそんな事心配するな、どうにでもなるといってくれたが、本当にすまない事をした。しかし、彼は実にタフな男で、その後、ここで素敵な彼女を見つけ、二人でアフリカに渡り、サハラ砂漠を駱駝で横断する大冒険をして、その旅行記を世に出している。そして、今でもアメリカで暮らしているらしい。

 デザイン関係の仲間達が送別会をツトムちゃんと写真家の江島さんたちの住むストッパーニで開いてくれた。帰国してからイタリアのデザイナーブランドの家具会社を始めたY夫妻や料理人のKさんや今泉さんなどで、思いの途中で帰らねばならない無念の気持ちをへべれけになって発散させたつもりだったが、それでも未練な気持ちが残ってしまってずいぶん荒れたようだ。その夜の記憶があまり無いが、「皆さん~頑張ってください!僕は日本に帰って頑張りま~す!」と叫び続けたようだ。

 

 

2009年5月11日

イタリア放浪時代<再びミラノ 12>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 3:42 PM

 3週間にわたる大旅行を終えてミラノに帰ってきた。僕にとっては期せずしてイタリアで学びたい方向を見つけた有意義な旅でもあった。さっそくミラノ城の博物館を見学したが、たぶんベローナより前に設計したのであろう。使われた素材と出来栄えの違いが有ったが、充分に感激に値するしっかりした設計がなされていた。何時の日か必ず体制を整えてベネチアに行こうと改めて思った。

 その頃、ゴローさんは不思議な旅の準備をし始めた。帰国のために日本までのオープンチケットを持っていたが、航空会社に尋ねると何処を経由しても料金は同じだそうだ。そこで、できる限りいろいろ周って帰るために、エジプトを廻り、インドでは10人乗りくらいの飛行機を乗り継いで廻る、奇想天外な旅のルートの計画を立て、日本に帰っていった。またツヨシも郷田さんの紹介で正式に空手の先生として雇われ、生活の基盤を作ったようだ。

 2月の終わり、僕もついにスタジオ・ベッローニを尋ねた。ミラノ城の裏のセンピオーネ公園を越えたあたりのビルで、1階に所長室と事務と応接のコナーが有り、半地下に製図台が6台程と打ち合わせテーブルがある明るい素晴らしい事務所だった。まだプロジェクトが始まらないからか所長とチーフらしい人だけの静かな事務所だった。すぐにでも仕事を始めたい気分で尋ねたが、簡単な説明とスタッフの紹介だけで、明日9時から来るようにと言われ、ちょっと肩透かしを食らった。

 翌日に出かけると、僕にアントニオ君という若いドラフトマン(製図補助員)が付けられた。所長は細かいニュアンスを外国人の僕に伝えるのが苦手のようで、直接に話し掛ける事は少なかった。すぐに幼児用の椅子のスケッチを渡されれこれを改善しろと言われた。日本では建築家は余り家具のデザインまでは設計しないが、僕は好きだったので、何案か提出した。次の日はコップのデザインで、これはさすがに建築家の仕事でないと感じながら考えた為かなかなか上手く行かず情けなかった。しかし、次に廃墟の丘を住宅にする廃墟の敷地を渡された。これは本業であり、またベローナのカステロベッキオを見てきたばかりだから力が入り、我ながら素晴らしい案だと思えるものが提出できた。結局これが私のテストだったようで、何とかパスした。

 3月になってプロジェクトが始まるとスタッフが増えはじめ、6人ほどになった。この事務所はプロジェクトごとにメンバーを集めて仕事を進める方式のようだ。新しいプロジェクトは小学校であった。すでに概略案が出来ていて、それを日本流に言えば建築確認申請を出すまでの仕事のようだ。皆でそれぞれの部分を担当し、チーフと所長のチェックを受ける形だ。就業時間は9時から6時まで、長いようだが、間に2時間も昼休みがある。皆は一旦家に戻って食事をしているようだ。つまり日に4回もラッシュがある。僕は昼に戻る必要がないので、センピオーネ公園あたりをぶらぶらして時間を潰さねばならない。そのうちサンドイッチを持参して事務所で食べる事にしたが、慣れるとこれもリズムになってしまうが戸惑った。

 会議は残念ながら細かいニュアンスが理解できない。あとでアントニオ君に懇切丁寧に聞くしかない。しかし、皆は話し好きである、ほとんど1日お喋りをしながら仕事をしているようだ。メンバーにパトリシアと言う若い女性がいた、小柄だが典型的なイタリア人タイプでなかなかの美人である。仕事はともあれ僕にも親切で、好感が持てた。だが、ある日、事務所全体が騒然となるような議論が夕方まで続いた。トラフィコなんじゃら?と聞こえるので何か交通関係の重大な事件が起きたのかと思ったが理解できなくて、一人取り残される形で仕事に打ち込んだ。特にパトリシアの激しく興奮して主張する異常な姿に百年の恋も冷めるような気分になった。帰りにアントニオ君に「今日の話は何だったの?」と聞いたら「最近のミラノは車が多すぎるのか?人が多すぎるのか?」の議論だったと聞いてあまりのばかばかしさに驚いた。

 しかし、久しぶりの仕事は充実して嬉しかった。文字などの書き込みはアントニオ君に任せなければならなく、もどかしかったり、大変な部分も多いが順調であった。日本と違って1つのプロジェクトを同じ大きさの図面で書く事は無い。厚手のロール紙(トレーシングペーパー)をA4の倍数に自由に切って書くようだ。だからコピーも裁断紙を使わずロール紙で図面ごとサイズに合わせて切りながら焼く事になる。どちらが効率が良いかは歴然だが、1枚の図面をきっちり絵のように書くならこれも方法だと思う。プロジェクトも最終段階になってしまった。図面が集められたが、案の定、全体の半分以上は僕とアントニオ君の共同で書いた図面のようだ。皆はおしゃべりばかりで、少しも手が動いてなかったのだ。申請は日本と同じ様にA4に折りたたんで箱のようなものに入れるのだが、彼らは図面をちゃんと折ることも出来ない。日本ではB5サイズに耳をそろえて製本して申請したものだから、慣れている僕がきちんと耳をそろえて美しく折りたたむのを神の手を見るような眼で眺めていた。

 徐々にスタッフが減り始め、僕としてはもっと煮詰めた形でプロジェクトを完成させたかったが、最後に残ったのは僕とアントニオ君とチーフでこのプロジェクトは予定どうり3月で終ってしまった。次のプロジェクトまで待つように言われ、28万リラ渡された。これが僕への評価だと思い、日本と同じ様にやれば何とか、普通以上にやって行ける自信はついた。しかし、申し訳ないが、この事務所の設計の仕方と内容は僕がイタリアまで来て学びたい場所ではないようにも感じた。そして、どうしてもベネチアに行きたい気持ちはさらに強くなった。

 

 

2009年5月8日

イタリア放浪時代<再びミラノ 11>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 11:53 AM

 ぺロポネス半島といってもグランドキャニオンはこのようであろうかと思うような深い切通しの運河を渡った。だからきっと半島が切り離されて島になっているのだろうと思うが、そこに架かる巨大な橋を渡ってオリンポスに向かった。遺跡が散在するだけの不思議な風景であったが、西欧思想とスポーツの原点になる地と思うと感慨もひとしおである。この遺跡を見届けて僕たちはより暖かな国のイメージを求めてトルコに向かった。

 しかし、暖かいはずのトルコに近づくと雪がちらつき始めた。国境辺りは今までのように平穏な感じではなくて両国の緊迫した関係を表し、2kmぐらい前からトーチカが幾つも置かれ、明らかに銃口は向けられているようで、小雪の中にちらちら見え隠れする兵隊の肩にしっかりと銃が担がれている。厳しい検問のゲートを抜け益々激しくなった吹雪の中をイスタンブールに向かった。だが不思議な事にこの車はチェーンも付けずに雪道をバンバン走る、トヨタのセールスマンをした事のあるゴローさんでさえ不思議がっていた。イスタンブールのブルーモスクの前に若い旅行者達が東西の情報を交換する有名なユースホテルがあることは聞いていた。

 雪の中で迷わずそのユースを探し当てたが、様々な国の言葉でかかれたメモがピンナプされた通路抜けて半地下のすえた匂いのする大広間に入った。澱んだ空気の中で、蚕棚の2段の垢だらけのベッドに渡されシーツを敷き、備えられた重い毛布で寝なければならない。夕方からぞくぞくしていた僕は風邪薬を飲んで服のままその毛布に包って寝ようとしたが、寒くて震えが止まらない。朝まで我慢したが、どうにも耐えられなかった。タラコのように固まった鼻血まで出て、皆が心配してくれ、ホテルと交渉すると、3階にはビップルームらしい普通の清潔な部屋があった。僕だけは2日間、この部屋を一歩も出る事もなく、正面に見えるブルーモスクから朝晩に聞こえるコーランだけを聞いて過ごした。

 3日目には回復した。皆に迷惑をかけたが、イスタンブールはトプカピ宮殿だけ見て去る事になった。何時の日かゆっくりこの街に立ちたい。僕の病で失った2日とこの寒さで目的地にしていた内陸にあるカッパドキアは諦めて、これがあの有名な遺跡かと思えるようなささやかな遺跡のトロイを廻ってチャナッカレ海峡をフェリーでヨーロッパ大陸に再び上陸した。そしてあの厳重な国境を越えギリシャに戻り、すぐに北に向かってブルガリアのソフィアを目指した。落ち着いた東欧の美しい街のソフィアから再びユーゴスラビアのベオグラードを目指し、さらに北上してオーストリアまでの行程は何日かかったかの記憶が定かでない。

 アルプスの麓まではかなりの雪道でもがんがん走るこの車はなんて素晴らしい性能の車なんだろうと思いながら進んだ。しかし、さすがに山道で動かなくなり、トンネルでチェーンを取り付けて走り始めたが、今度は一向に進まない。あわてて確認するとチェーンを付けたのは後輪で、前輪は雪の中を空しく回転していた。なんとこの車は当時では珍しい前輪駆動車だったのである。皆で大笑いしたが、前輪駆動車は雪道での登坂性能がどんなに素晴らしいかを改めて知ったわけであった。山道のチェーン走行も快適で深い雪のザルツブルグを経由してから南下して、イタリアとの国境を越えるとすぐに冬季オリンピックが開かれたことがあるコルチネダンペッツオに入った。シーズンであったが、日本のスキー場ほどには混むことはなく、施設と貸し用具は完備していた。パウダースキーで滑りやすく僕たちは突然上手くなったような気分でリフトを乗り継ぎ、かなりの高所から下り降ることができた。ここで2泊してしっかりアルプスの冬も楽しんだ。

 コルチネから真直ぐ南に下るとベネチアである。もちろん市内は車で入れない。冬の観光客が少ないベネチアはまた格別である。橋を幾つも渡り細い路地を抜け、サン・マルコ広場に出た時は感激した。ゴローさんの友人で画家でもある方と広場で待ち合わせて紹介されたのが、今ではすっかり有名になられた絹谷幸治さんだった。絹谷さんが苦学していた頃、あちこちの店に絵を書いて出世払いで飲み代や食事代にしていたと言われるが、今では何処へ行っても幸治!マエストロ幸治!と人気者である。僕達はその後、自宅に案内され、素敵な奥さんの手料理をご馳走になり、作品や独自に研究されたフレスコ画について教えていただいた。すっかり感激して、ベローナのカステロベッキオの改修した先生がベネチア大学に居られて、その先生に師事したい旨を話した。絹谷さんはこの春には日本に帰る準備をしているので、タイミングが合うならここに住み給えと言ってくれた。とても嬉しいが、この春までには僕の準備は出来そうもない。しかし、絹谷さんの暮す姿を見て、僕が理想にするイタリアで学びながらの生活の仕方が少し見えたような気がした。

2009年5月1日

イタリア放浪時代<再びミラノ 10>

Filed under: 旅行日誌,社長ブログ — boss @ 12:43 PM

 5人の旅は僕の希望で、キミコ嬢の友達が素晴らしいと話していたベローナから始めた。街中にあるコロッセオ(円形闘技場)も素晴らしかったが、なんと言ってもカステロ・ベッキヨ(古い城)に驚いた。お城の中がリメークされて博物館になっている。限りなく原形の空間や素材を残しながら、ガラスや鉄や石など普通の素材をまったく新しい使い方で構成し、これこそ僕がイタリアで見たかったプロの建築の手法であると確信した。感銘して博物館の事務所に飛び込み、ここを改修した建築家は誰かと尋ねたが、名前までは分からいけどベネチア大学の先生らしい、多分同じ先生がミラノ城も改修しているはずであると聞いた。この時、まだ手探りであった僕のイタリア遊学の学ぶ方向に光を感じた。

 ベネチアは近くを通るが帰りに寄る事にして東に進み、国境の街トリエステルを越えて今ではもう存在しないチトー大統領の統治で何とか国の形を保っていたユーゴスラビアのザグレブに向かった。翌日、ザグレブのスーパーでなんとも懐かしい漬物の匂いに誘われた。そこにはベニヤ2枚ほどの大きさのテーブルにキャベツの朝漬けがピクルスとして山に盛られていた。安くて美味しかったのでスーパーの袋一杯分ぐらい買い、しばらくは車の中が漬物臭でむせ返るようだった。サラエボまではだらかな丘の草原が多く古代から変わらない羊飼い達はまだまだ健在なのだと感激した。

 学生時代地震で大破した街、スコピエで数年前に再開発コンペに当選したのが私たちの教授である磯崎新先生の案で、その工事が進められている事を思い出した。皆に申し訳ないと思ったが、行く事にした。しかし、まだインフラの整備段階で広大な敷地にはトラクターのみが働いているて、残念ながら建物らしいものはまだなく、事務所すらどこに有るのか分らなかった。そして同時にドイツ語がなんとか解るのは辺りまででこの先はもうマケドニアと呼ばれるギリシアであり、ここまで絶好調だったアッズーロに変わって元気になったのはツヨシと僕であった。言葉なんかぜんぜん通じないので、スタンドでは手を一杯に広げて「ガソリン満タン!」とさけび、レストランやバルでは日本語だけで身振り手振りで通じてしまうのだから面白い。

 山間に貼り付くような巨大な廃墟の街や古代の香りを残す風景を望みながら羊飼いたちの丘を越えてギリシヤに入った。アテネはさすが大都会だが、街行く人々は意外とずんぐりして、イメージしたギリシヤ彫刻のような人をほとんど見ない。ましてやミロのビーナスのような女性は皆無である。黒い服をまとった牧師さんだけがやたらに目に付くのを不思議に思った。アクロポリスの丘はさすがに荘厳で街の何処からでも見上げる事ができ、夜になるとライトアップされ、過去の栄光を誇っている。僕たちは待望の繁華街に向かいルーチェロッサを探した。やっと探し当てた店で愛想良い年増のお姉さんに誘導され席に着いたが、なかなか注文も女性も現れず、入り口辺りが何となく騒がしい。頼んでもしないコーラがテーブルに運ばれ、しばらく待てと言われた。様子がわからず座っていると、私服の男が10人程店になだれ込んできた。ポリス!何とか!と叫んでいる。拳銃は持っていないようだが警察の手入れのようだ!言葉も様子も分からないので息を呑んでいると、ママさんらしき人があんた達は関係ないから外へ行くように促された。何かホッとする気持ちと、惜しかった気持ちが交錯しながら外に出た。ステルジョスよ!ルーチェロッサには何があったのだ?

 気分直しにパルテノンの裾野のギターと歌声が聞こえる飲み屋に入った。観光客の少ない季節だから地元の若者達だろう、哀愁のある独特のテンポで順番に踊りだす。飲み干したグラス掲げ踊り終えると床に叩きつける。ウエターが苦情もいわず帚で片付け、また次の若者がグラス片手に踊りだす。これが彼らの飲み方で朝まで繰返されるようだ。こちらも日本人として負けられない気分になった時、さすがツヨシだ!ざんばら髪を乱してモンキーダンスで踊り出し、終わりにグラスを叩きつけて喝采を浴びた。

 

HTML convert time: 1.698 sec. Copyright ©2007 ikenogumi.inc